独り言多めの読書感想文

⭐️オススメの本について好きにおしゃべり⭐️

【読書感想文もどき】文系が正面から物理と数学と向き合ってみたのだけれど


「どうやら乳糖不耐症みたいで、頑張っても飲めないんだ、牛乳」
 という感じに、残念ながら物理も数学も絶望的に適性がなかった。『知識ゼロでも』や『文系もハマる』といった文言に釣られて購入した本の著者名に「川」と「康」を見つけた段階で脳みそは『雪国』に飛んでいるのだから、私は根っからの文系だ。
 そうして「ここが面白いんだよ!」と力説されたところで「へえ」以上に何も出てこないのは、ひとえに読者である私がポンコツだからと断っておく。そもそもこの本を購入するに至った以上、きっとその先には「なりたい自分」があって、食わず嫌いとか、自分との間に線を引きたくなくて手に取ってみた。それでも無理なものは無理だし、試してみたけど合わなかったという事実は、食べてもみなかった時よりリアルにその感覚を表現できるようになった。たった数文字から5行程度の感想になるなら、何より自分自身も納得しやすい。こっちは行き止まりだったと、割り切って別の方向に舵を切れる。

 

 そもそも論、「現象を集約できる」と文字に過剰な期待をかけてしまっていた時点で間違っていたのだ。〈言葉というのは多くの情報を捨てて。ほんのちょっと、氷山の一角程度しかものごとをあらわせない、そういう性質のものです〉と京極夏彦さんが『地獄の楽しみ方』で言っているように、例えば「ボールが飛んでくる」だけでも「どんな大きさの?」「どのくらいのスピードで?」「どんな弾道で?」と幾通りにも捉えられる。絵で見れば一瞬で把握できることも、言葉を介すると「ラケットを使ってベースラインから打ち出されたボールは、天井に設置された蛍光灯との間で一瞬姿をくらますも、かけられたスピンの分だけゆっくり飛んでくる」となる。そうしてこれが漫画と小説の差。
 漫画は描き手が物凄い時間と労力をかけた割に、小説に比べて早く消費される。自ら理解に向かわずとも勝手に入ってくる。だから理科は実験が多かったのだと今になって納得する。参考までに文系の私が地学と向き合った時の記録をお見せしよう。まさか能動じゃない。地学は自身が作品を作り上げる上で必要となる要素だった。ただそれだけだ。

 

 

『面白くて眠れなくなる地学』左巻健男さん著より

 


    あ、あ、読まなくていい。こんなん出されて「うわあ面白え!」とはならない。実物を研究しているのだから、当然入りは実物であるべきだ。そこで見たものを初めて文字に落とし込む。始めから文字に当たるから氷山の一角をチョリチョリする結果になるのだ。ちょっと何言ってるかわかんない。
 本ばかり読んでいると現実の視覚以外の情報量に溺れてしまう。かと言って現実で受けた刺激を放置しておくと、風化して、輪郭のないイメージ、ぼんやりとした印象になってしまう。わざわざ写真を撮らないように、本人さえ満足すればいいのかもしれないが、映えたいなら個人の主観を客観的にも楽しめる形で残すことをおすすめする。いや、そもそもあれは個人の主観の世界か。

 

 絵と文字。現実と仮想現実。
 それぞれ深く関わり合っていて、どちらかが過剰に優位になるとどこかに支障をきたす。疲れているのに無理に文字に当たったところで、かえって曲解してしまうこともあるし、逆に元気な時には自分から理解に向かわないと物足りなく感じることもある。
 そういう意味では、コンディションを整える上でも自分の癒し方を知っているというのは重要なことなのだろう。私にとっての癒しはテニスであり、書くこと読むこと、飼い猫と昼寝をすること。物理や数学に興味を持ったのは、テニスにそれを活かせないかと考えたからで、結果的には無理だったが、努力の方向としては悪くなかったように思う。まあ頭で理解したところで実際できるかは別問題。私は大人しく練習に戻ることにするが、一方で適性があり、活かせる人には存分に活かしてもらいたいとも思う。私はその「絵」を見て、ありがたく盗ませてもらう。

 そんな今回は「文字(視覚、仮想現実)×物理、数学(五感、現実)」及び「小説×漫画」の話。

 

 

 

 

 

 

 

【水溜まりを軽やかに飛び越えるように】芦沢央さん『汚れた手をそこで拭かない』

〈力を入れるのは誰でもできるけど、力を抜くのは意識しないとできないんだよね〉


何のことない。そんな風に教えてくれたのは馴染みの歯科医師。口渇。仕事中、緊張や水分補給が疎かになることによって乱れる口内環境。そんな時、頬を膨らませるだけでも唾液は分泌されるのだと実際にやってみせてくれた。力を抜く意識。それは何も口内環境に限った話ではない。

 

「重い」という表現がある。それが「負担」と言い換え可能だと知ったのはつい最近のこと。最も短く、最もダメージを与える言葉として私の中にインプットされているこの単語を、時折取り出して眺めては「そうかなぁ」と思う。「そうだろうなぁ」とも思う。
 念のため断りを入れるが、そもそも重いこと自体、悪いことではない。何かを好きになること、それを愛でる行為は、人を介して勝手にその人にとっての好きなものに変換されるから。ただ、その表現法、深さ、密度というか、ギッチギチに詰め込んだものは息苦しい。情報量が多い、というのは純粋な負荷。それは受け取る側の容量を軽く越える可能性がある。そうしてそこは「それだけ受け入れられるキャパを持っている」云々より「今、受け入れる気があるか」という、気分にこそ大きく左右される。さて、

 

 今回紹介する芦沢央さん「汚れた手をそこで拭かない」この作品の美点は「至ってシンプルであること」「シンプルな短編集であること」
 シンプルかつ短編なら、例えばお風呂に入りながら、とか、待ち時間とか、何となくスマホと過ごしている時間をアップグレードしやすい。気負わずに済む。大体、ラクできるもんならラクしたい。本当に琴線に触れるものに出会った時、力を発揮できるように。だから「手軽」に「補給」できるものはコスパにおいても非常に優秀。


 ただ、こう書くことで「安易」で「低俗」なイメージに分類されてしまう可能性があるので除外しておく。逆だ。この作品は、言葉選びは、組み合わせは、表現法は、一貫して洗練されている。一切の無駄がない。たぶん本当はもう少し深められるものを、書いて、書いて、書いた後、削れる所まで削ってる。削ぎ落として残ったもの、精鋭部隊。結果として凛とした雰囲気を纏ったものだけがその場に残った。もちろん必要な情報に不足はない。軽薄でもない。それ以上にその情報の出し方がものすごく効果的で、最も力を発揮してくれる場所に個々を配置している。私がこの作品を読んで、まず受け取ったイメージは「この作者、絶対めっちゃ頭いい」だった←頭悪そう 


 例えるなら、ジグソーパズルがあって、もう始めからはめる場所が決まっていて、そこに抜かりなく収めた感じ。深さ、密度。重量、適正。余白があり、見る者に圧迫感を与えない。行き届いているが、束縛感はない。少し離れたところから見ると「ああキレイだ」と思う。

 

 何というのだろう。精密ゆえ感じる息苦しさ、圧を、例えば「若さ」と称した時、その次の段階、例えばベテランが軽く足並みを揃えるような余裕。そう。この作品から感じるのは余裕。淡々と積み上げた基礎に、ほんの1滴彩りを垂らしたような。これはあくまでも私の感覚だが、上記、余裕と称したのは、同作者「今だけのあの子」と比較したものだ。決して面白くない訳ではない。けれども本棚に残っているのはこの作品だけであり、その違いはただそれだけのような気がする。タイトルから推測できる通り、後味の良いものではない。それでも洗練された美しさに、思わずこの作品を書き上げた後の作者の足取りを追ってみたくなる。きっとしれっとカフェでコーヒーでも飲んでる気がするから。その頬は曇り空に照らされている。

 

 さて、読書感想文というよりか「『読了感』想文」になってしまった。一文も引用がないなんてどういうことだ。盛大に言い訳させてもらおう。あくまで私個人の感覚だが、この作品は全体で一つの良さを構成している。ジグソーパズルの1ピースを眺めて「ああキレイ」とはなかなかならないように。だからこそ、ぜひ実際に読んでみて欲しい。シンプルで短編だからオススメもしやすいんです。この苦味の効いた後味は、きっと癖になる。

 

 

 

 

 

 

 

【次回更新は9月2日(土)です】

 

 

 

【あなたは嫌いでも私は好きなので】浅野いにおさん『ソラニン』


いにおはきっと、自分が生み出したはずの作品「ソラニン」が嫌いで、本当は自分が伝えたい音ではないのに、売るための作品を世に放った。結果不本意な注目のされ方に、けれど事実その作品によって生かされる現実に、嫌気がさしたというよりかは溜まりに溜まった鬱憤を晴らすべく出したのが「零落」なのだろうと勝手に受け取っている。

 

画像1

 

自作にその名前を拝借するほど同作者のファンである私は、おこがましくとも10年以上前から呼び捨てで彼を書き綴っている。不快に思われる方もいると思うが、愛情表現の一種なのだと寛大な心でご容赦いただきたい。この距離感だからこそ書けることがあるのだ。

 

いにおはきっと、自分が生み出したはずの「ソラニン」が嫌いで、けれども私が「ソラニン」を愛し続けていることもまた確か。青年期の悩みや葛藤。分母の多い共感は、それぞれ個々の経験に置き換えられ、昇華されゆく(朝井リョウさん『少女は卒業しない』参照)結局本棚に残るのは血の行き交う作品群であり、主張が強すぎたり、深すぎたり、エッジがきき過ぎたりするとそれだけ読み手を絞ってしまう。それでもこだわりたかったんだろう。

 

画像2

 

おやすみプンプン」や「うみべの女の子」はそれはそれで好きだし、「ひかりのまち」も「虹ヶ原ホログラム」もいいと思う。けれどやっぱり「ソラニン」に代えはきかない。第一印象。私にとってのいにおはずっと「ソラニン」だ。私は。

 

ソラニン」を読んで、自殺した友人を生かせることを知った。自分の筆で、自分勝手に、自分の解釈で、その時を書き留める。
標本。人生の内、最も大切な大学4年間を、最も傍で過ごし、最も話をしてきた生き証人。その袖を、死して尚引くことができる。与えて、奪ったその半身。私にはそれを書き残せる手がある。目がある。頭がある。伝わらなくても伝えたいと思う意思がある。好きだと声高に叫べる喉がある。それを教えてくれたのは他の誰でもない、いにおであり「ソラニン」だ。

 

「零落」の帯に書かれた「浅野いにおの時代が終わる」の文言。終わらない。私の中で終わることはない。この物語は現在進行形で続いている。何年経とうと色褪せない。そんな作品に出会えたこと、心から幸せに思う。

 

語りが過ぎた。いい加減「独り言多めの」ではなく「ほぼ独り言の」に変えなければいけない。毎度お付き合いありがとうございます。

 

それでは、良い読書ライフを。

 

 

 

 

 

 

【次回は8/26(土)8時くらいに投稿予定です】

 

 

 

【幸せを願うは願われることだった】東野圭吾さん『容疑者Xの献身』


東野圭吾さん『容疑者Xの献身』を、読書感想文してみる。

映像化され、何度も再放送されている作品に、通行人Aがおこがましい……! という問題はスルー。だって個人の感想だもの。それが私の愛し方よ。この作品を読んだ上で軽々しく愛とか言える私は恥を知るべき。セルフツッコミ。エコでしょ?

 

さて、今までいくつかの作品を取り上げてきたこの「独り言多めの読書感想文」そもそも読書感想文を掲載するのは「世の中にはこんないい作品があるから読んで欲しいー😆」から。だからあえてその作家さんにとって看板とも言える作品を避けて来た。
ただ、ちょっと思ったのは(あくまで代表作に比べて)知らない作品を評されても「今そこにいるあなたにとって、それが正しい見解かどうかを判断し兼ねる問題」は別にあって、ここいらで擦り合わせをするのも一つかなと思った次第。逃げれらんねぇからなこれは。

 

この作品の美点は「献身を、落差により最大限の価値として提示した」ことだと考える。

献身、すなわち「自分がどうしたいか」周りにどう見られるかではなく「そうすることで自分が幸せ」そのことを湯川は『あの男は論理性を重視する。感情は二の次だ。問題解決のために有効と判断すれば、どんなことでもやってのけるだろう』と言う。ここで言う「自分がどうしたいか」は花岡親子を助けること。そのために罪を犯し、汚名を着る。ここに明暗のコントラストが生まれる。ホメオスタシスが作用する。

 

困っている人を助けるのは、困っている人を助けることで、立ち位置をならすためだ。つりあいがとれて「よかった」双方笑顔になって寂しがりの葦は心の安寧を得る。一方、助けられた側は恩返しをしようとする。連鎖する。この連鎖は途切れることはない。どちらかが飲み込む以外。それが飲み込めない大きさだったとき、生まれる軋轢。それこそが、涙であり、叫び。

例えば大切な人を庇って死ぬことで満足するのは、自分が役に立ったと思えるから。生命という代償を支払って、その人の心に残り続ける。自己満足と言われようと、本人だけは、一つの思いだけは汚せない。
「考えうる限り理想的な形で生きて欲しい」という願い。そのためにより高い確率の幸せを示す。それもまた自己満足。自己満足。だから自己でない生き物は、必ずしもそれに従う必要はない。軋轢の先にこぼれ落ちた破片、が突き刺さる。他力。想定外の形で負った傷。その痛みに流れ落ちる涙こそが、感情をもつ生き物の証。
ホメオスタシス。人には、人類には、自浄作用がある。困っている人を放っておけない。その人が自分のせいで困っているのだとしたら尚更。

 

 

〈凍り付いたように動かなかった靖子の顔が、みるみる崩れていった。その両目から涙が溢れていた。彼女は石神の前に歩み出ると、突然ひれ伏した〉

 


コントラストをならそうとする。丁度温度差のある部屋の窓を開けるように。一緒になってやっと安心。何よりつながりを重んじる葦。「自分がどうしたいか」を重んじながら、行ったり来たり。そうして個々は成熟する。

 

「献身」に蓋を出来るのは同じく「献身」破れ鍋に綴じ蓋。そんな訳で、みるも鮮やかなこの作品、原作を読まないのは勿体なさすぎる。読んだら読んだでキャストとのギャップに驚くのも楽しみの一つ。

 

ここまで読んでいただいてありがとうございました😊うれしい。
あなたの読書ライフが、より実りあるものになりますように✨

 

 

 

 

 

 

 

【簡易グルメトリップのすすめ】柚木麻子さん『その手をにぎりたい』


柚木麻子さん『その手をにぎりたい』を読書感想文してみる。

残念過ぎる描写に「スケッチから始めようか」とアドバイスして下さった学生時代の某先生、私は元気です。描写関係なく元気につぶやいてます。間違えた。
そんな「心情しかつづって来なかった私」がおこがましい……! という問題はスルー。だって個人の感想だもの。それが私の愛し方よ。

 

この作品の美点は「簡易トリップを実現させる、リアルな時代描写」「『グルメ小説』と言わしめるだけの食事の描写」「安全な枠を飛び出して戦う女性の描写」など数多くある。

描写によって、その時代その世界その人の感情を共有する。感情輸入。性差年齢立場全てを統一し「その人」に成り代わる。使役は作者。別に特別なことじゃない。誰でも当たり前にやってること。ただ、この「当たり前」がクセモノ。

川崎フロンターレ中村憲剛さん、ガンバ大阪遠藤保仁さん。どちらも私が好んで見るサッカー選手だが、その共通点は「ボールを止めて蹴る」精度の高さ。私にとっての一流は「スルーしがちな足元に焦点を当てられる」イコール「どこまでも謙虚な人」である。

 

ほんで何を言いたいかと言うと、結局何だかんだ挙げたところでこの作品の美点は「綿密な背景描写による臨場感」に集約される(私調べ)時間をかけるに相応しいか否かの一つの線引きになる土台固め。いかに深いところに引きずり込めるか。読み終わった時、息継ぎするように天を仰がせられるか。

流れる風景と共に追いやられてしまわないように生み出す、刹那的なイレギュラー。「今何か見えたよね」確かに感じたことのある思いを、必ずしも自分が生きた訳ではない時代の中に見出す。

 

場合によってはなかなか不自由な旅行。いっそのこと「時代」飛んでみませんか? 横がダメなら縦で的な。

そんな訳で「グルメ小説」としては非常に美味、「旅行小説」としては非常にバブリーなこの作品、一人で味わうには勿体なさすぎる(ここでは主題外れるから書かないけど「恋愛小説」としても非常に優秀。大人な恋)

 

 

ここまで読んでいただいてありがとうございました😊うれしい。

あなたの読書ライフが、より実りあるものになりますように✨

 

 

 

 

 

 

【言いたいことが言えない時に読みたい】fさん『真夜中乙女戦争』

fさん『真夜中乙女戦争』を、読書感想文してみる。

 

3年前まで「好きなものに猫を入れる人間」が嫌いだった人間がおこがましい……! 

という問題はスルー。だって感想だもの。個人の主観だもの。勝手に好きに解釈したっていいじゃない。それが私の愛し方よ。世界平和に必要なのは猫である。以上。

 

おっと危ない。表題そっちのけで終了してしまうところだった。

この作品がすごいのは、「定期的に読みたくなる周期が来る所」です。

良作は数多くある。あれ良かったなぁと思い直すことも多くある。でも、実際手にとって一から読み直すかと言ったら、そのほとんどがこぼれ落ちてしまう。

その理由として「そんなに暇ではないから」というと良作に失礼だけれども、既存品と比べたら刺激的な新しいものを選ぶに決まってる。AVと同じ。

じゃあ何故「定期的に読みたくなる」のか。それは決して「別格のお気に入りだから」という訳ではない。「お手本にしたい美しい日本語で丁寧に描かれているから」という訳でもない。

 

ヒントは読みやすさ、コスパにある。

羅列される事象。その一つ一つの精度が非常に高い。パン! パン! パン! と的確に中心を射抜いていく様子はまるでやぶさめ。あえて選んでいるであろう、暴力的な表現の数々と合間って、既存品とは思えない新鮮さで脳味噌を刺激してくる。

読みやすい作品、と言うと複数ピックアップされる可能性が高いが、この作品に向けて言う読みやすさとは「尖っていて刺激的、かつ、共感力が高い。一方、きちんと爽快な読了感を得られる」詰まるところ、割いた時間に対してのリターンが大きい。だからやっすい言葉に変換すれば「コスパ最強❤️」となるのだ。

ちなみに、齟齬が生じないよう、すり合わせ目的で「爽快な読了感」というのは私にとって第9章までであり、次の章のタイトル「おまえに好かれるために生きてる訳がねえだろ」までであることを告白しておく。だから同時に「定期的に読みたくなる」範囲はここまでであり、逆にここから先は相当気が向かないと読まない。結末を知っているからこそ、純粋に一番気持ちの良いところで止めておきたい。あとは好きに補完したらいい。だとしても定期的に187ページ読んでるのだ。

 

そんな訳で「真夜中乙女戦争」個人的に表紙も好き。結構長いこと書店の平台にいたんで覚えてるんです。おこがましくもこの感動、一人で味わうには勿体なさすぎる。

試し読み、最初からでもいいと思うけど、オススメは間に挟まってる黒塗りのページ。それだけでも作品の雰囲気が伝わる気がします。更に言うならその中の「拝啓 東京タワー様」で始まる見開き1ページ。これは単純に愛情表現の仕方が好き。

 

ここまで読んでいただいてありがとうございました😊うれしい。

あなたの読書ライフが、より実りあるものになりますように✨

 

 

 

 

 

 

【本当は責任をとりたかった】朝井リョウさん『少女は卒業しない』

朝井リョウさん『少女は卒業しない』を、読書感想文してみる。
(「月○本新作を仕上げる」というハードルを自ら設定してこなしていたという作家さん相手に)未熟者がおこがましい……!
という問題はスルー。感想だもの。個人の主観だもの。勝手に好きなんだもの。それが私の愛し方よ。

 

この作品は一言で言うと『「切な美しい」短編集』です。
何だ切な美しいって。言い得た! って自分の表現に酔ってんじゃねぇぞ零細SNSerが(playerのerと同じ意味ね)

 

いや、ほんとね、この短編集には外れがない。違う。語弊がある。
当たらないものがない。
複数の作品が混在する短編集には「中でもこれ」というお気に入りが生じやすい。同じ作家の同じ土台の中でだからこそ、テーマや当てたスポットによって、はっきりと作品同士を比べることが出来るからだ。だからその人にとっての優劣が生じるのはむしろ当たり前のこと。その当たり前をぶち壊す。思うにそのマジックの種、からくりは「仮想共感によるまやかし」だと思う。

 

誰しもが通ってきた学生時代。それは(不登校や長期化した嫌がらせなど、根本から学校に対しての印象が異なる人を除いた人達にとって)経年によって非常に美化されやすく、そもそも美化されていること自体に気付かずに享受しうる余白が多いため、記憶の中で曖昧になりがちな部分(主に「具体的に場面こそ覚えていないが、その時確かに感じた経験のある感情の記憶」)を作品を読み進めるうちに無意識に補填することで、ここに書かれている内容ほとんどを自分ごととして捉えるようになるためだ。

 

……オイオイ針の穴でも通すつもりかい? 自分で言っといてその推察、刺さらなかった時すげぇ恥ずかしいぜ? 針の穴より先に、そん時用の穴掘っといたほうが建設的じゃねぇの? a-ha.忠告ありがとう。考えとくよ。

 

桜色。甘酸っぱさと、刹那的に走る痛み。

 

「あの時」

 

学生で、無力だった。大切にしたい相手がいても、
責任、財産、余裕、時間。
上滑りする言葉。その人の人生を背負えるだけのものを持たない。でも大切にしたいと思ったんだ。本当に。その気持ちに嘘偽りはない。そんな叫びを。
「あの時確かに生じた、感情のエネルギー」を閉じ込める。

 

そう。確かに身に覚えのある感情。さまざまな立場、関係から掘り下げた先に、自分でも忘れていた宝物を見つけたかのような。決してまっすぐさわやかなハッピーエンドじゃなくて、例えるなら淡くけぶった水色をした、泣きそうに微笑むような空。それは痛みを知る分、どこまでもやさしくて。

 

性差関係なく、あなたは必ずこの作品の中に「あなた自身」を見つける。もしかしたら見つけたくなかったもの、あえて埋めていたものまで掘り起こしてしまうかもしれない。それでも、

 

読む価値はある。リスクを差し引いて有り余る。

 

「チア男子」「世界地図の下書き」「星やどりの声」どれも好きだが、中でもこの短編集はいつまでも私の一軍だ。満点の短編しか収めていないこの作品、おこがましくもこの感動、一人で味わうには勿体なさすぎる。

 

まずは冒頭短編一本、読んでみることをオススメする。
ここまで読んでいただいてありがとうございました😊うれしい。
あなたの読書ライフが、より実りあるものになりますように✨