独り言多めの読書感想文

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【祝映画化】朝井リョウさん『正欲』


今週末公開される映画『正欲』のため、改めて本作を読み返したので考察、感想文してみる。相変わらずガッキーかわいい。
 この作品の根幹は人類存続の根幹、種の保存に直結する「性」にあり、そこから派生する多様性、ある種の「柔軟性」について、複数の視点から話を進めて行く。『観る前の自分には戻れない』というのはその通りなので、文章はハードルが高いという方は特に、是非とも映画館に足を運んでいただきたい。私も行く。

 今回は大きく4つに分割して感想文しようと思う。

 

1、表紙から読み解く

表紙は頭を下にしたカモ。天地の違和感はどこかタロットカードを思わせるが、とにかくカモであることは間違いない。連想するのは「いいカモ」。対象を利用することで、自身の心地よさを得る。ニュアンスとしては、ペンギンが安全を確認するために、海を渡る前に内一匹を海に突き落としてみるというもの。

〈「あなたには分からないかもしれないけど」〉

子供を多数派でいさせることで、正常に生き延びる確率を高めようとする啓喜。けれど学校が苦痛で、別の道を生きようとする息子と、それを応援する妻。2人の言い分は、けれども検事という職業柄、犯人の社会から弾かれている率の高さを鑑みて、素直に受け入れることができない。結果生じる軋轢。
 怖いのは誰の主張も間違っていないこと。正義の反対は別の正義であること。
 同じく論理同士のぶつかり合いが、視点の数だけ見られる。

 多数派の言い分。少数派の言い分。
 多数派の性質も持ちながら、選択肢があるにも関わらず望めない立場の言い分。
 それはどの段階で扉を閉めるかの違い。単純に話し合えば解決するものではない。それは誰もがもつプライバシー。カモにはカモの一存がある。

 

2、共通認識が共通認識として機能しない孤独

 生きとし生けるものに課される命のリレー。必要になるのは性、異性に惹かれる心とした時、自分に必要なものが備わっていなかったら。
 何はなくとも当然の土台として話し出すその土台がなければ、確かに本人にとっても相手にとっても〈地球に留学しているよう〉に見えるかもしれない。土台を欠いた状態での話は、いずれ大きな齟齬を予感させる。関係を続けるためには互いに気を張り続ける必要があり、結果当たり障のない会話に終始する。だからわざわざその人と「繋がろう」と思えない。と、そういうことだろうか。特に全ての分母に当たる「性」だからこそ、広義、「それ」があることで存在することを許されているからこそ。
 不幸なことに人は社会を形成する。決して一人にはしてくれない。けれど一人証人がいれば、生きるのはぐっと楽になる。「その人」がまともであると証明してくれる一人がいれば。

〈「人生の中のたった一点を隠しているだけなのに」〉

 全ての分母だからこそ深い絶望。
 だからこそ、ただ一人の証人を求める。この人が語る自分は確かに自分だと笑えるような。自分にとっての相手と相手にとっての自分が、限りなくイコールに近い関係であるような、そんな理想。

 

3、多数派がしていることは滑稽に分類されないらしい

異性に対して興奮しない2人の異性がセックスの真似事をしてみる。


〈「何これ」「私いま死んだカエルみたいじゃない?」
 脚を抱えたまま、夏月が言う。
「異性と知り合って、連絡先交換して、駆け引きとかして、おしゃれして、デートして、その最終ゴールがこれ?」〉

 笑った。真理だ。「大多数がやっていると分かっていること」だからわざわざ疑問に持たないだけで、ほんと、たったそれだけのために家族や信用やお金や立場、その他もろもろを捨てるなんて馬鹿げてる。けど渦中にいる人は正常な判断ができなくて、逆にそれだけの力が定点で発生している。そういう意味では、「それだけの力」を正面から避けられるというのは、裏切りが発生しないと分かりきっている関係というのは、出逢えさえすれば、ある種最も幸せな関係と言えるのかもしれない。

 

4、やさしさに必要なのは想像力

〈「一番大切なのは、──(中略)──何でもいいからとにかく言い切るということ」〉
〈情報過多の社会の中で、就活生ほどほんの少しの情報に揺さぶられる人たちはいないだろう〉として「誰もが答えを求めている」というのが、同作者による『何様(むしゃくしゃしてやった、と言ってみたかった)』での見解。
 何よりラクだから。「AはBである」と言い切ってしまえば、その先の思考は放棄していい。だからこそ「AはBとは限らないかもしれない。何故なら」を掘り下げる続けること自体ストレスで、よくもまあこれだけ掘り下げたなと、謎の上から目線で脱帽する。

 同作者の作品に多くみられる「自分をAの立場に置き、巧みな共感から最後に思いっきり裏切るという手法」は、これまた健在で、今回も思いっきり負傷した。
 ただ、啓喜と妻のやり取りは一思いにスパンと切られた感じがしたが、一方で八重子と大也のやり取りはノコギリのような形状をしていて、なんだかギリギリと嫌な感じが残った。たぶん八重子というキャラクターに好感が持てなかったというのと、ほっといてくれという感覚が自身の性質に近しいせいだと思う。あくまでこれは私個人に終始することだけれど、基本どの立場の言い分も分かる。そうしてこの作品の目的こそ「立ち止まらせること」なんだろうなと思う。

 それぞれに思う正しさがあって、でもその反対にも別の正しさがあって、それまでただ一時の気持ちよさのために「言い切ること」で、知らず誰かを傷つけてきたかもしれない人が、ほんの少し口調を和らげれば、不用意に傷つく人が減るかもれない。
「立ち止まらせる」というのは「可能性、想像力を養う」ことで、結果「言葉を選ぶ」ようになり、傷つきにくい社会をつくることだ。そのために用意したのが、ざわめきを残さずにはいられない最後の一文だと思う。
 セキュリティ、インフラの如く見えづらい。けれどその基盤は、マナーは、きっと万人の生きやすさに直結する。