独り言多めの読書感想文

⭐️オススメの本について好きにおしゃべり⭐️

『夜明けのすべて』映画感想

♯男女間の友情
パニック障害
月経前症候群
松村北斗
♯距離感
自死を選ぶ時
♯夜明けのすべて

 

 

1、 男女間の友情は成立するか

 これは作中にセリフとして出てくる。松村北斗さん演じる山添くんは、自分で発信した問いに自分で答える。

 

〈──けど、3回に1回くらいなら助けられると思う〉

 

 この距離感お見事!
 適度適切絶妙なソーシャルディスタンスパーソナルスペースの確保。
 3回に1回って、アレだよガチャとかと同じで、本人にとって一番ワクワクする割合じゃない? 当たり出た! って。違うか。

 言うなれば「最低保証」に近い。
 セーフティーネット。例えば映画冒頭の、雨の中バス停のベンチで横になるしかなかった辛さから救われる。「いつものやつ?」と傘をかざして避難させてくれる。
 友達という言葉の周りにはいつだって曖昧な線引きが存在して、
 他人、友達、恋人未満、恋人。何だっていいよ。辛い時、助けてくれる人は神だ。

 けれど一方的に恩恵を受けるのは居心地が悪い。
 お互い様で初めて腰を落ち着けられる。
 お互い3回に1回くらいなら助けることができる。そんな心地よい存在。
 自立した大人同士だから成立する男女間の友情、あると思います。

 

2、 パニック障害

 とはなんぞや。もう少しポピュラーな類義語として鬱があげられると思っている。私自身、友人が自死を選んだ経験を持つ。パニック障害だったことは知っていた。

 電車に乗れない。知り合いに会うのが怖くて街を歩けない。結果、家から出られない。当時リモートワークなんて言葉自体なかった頃、家から出られないというのは稼ぎを失うことだった。じゃあ彼女は生活困窮を理由に自死を選んだかと言えばその限りではない。

 人はたぶん、一方的に与えられ続けることに耐えられるようにできていない。

 作中「パニック障害は治療に10年かかることもある」というセリフと、遺族が集う場面があった。自立できないことに追い詰められた人たちが同じ道を選ぶ。パニック障害自死、ひいては自立できないことと死は非常に親和性が高いのだろう。

 本人も自分を追い詰めていたが、遺族もまた自分に問いかけ続ける。
 自分に何かできることはなかったのか。あの時声をかけていれば。どうして気づけなかったんだろう。どうすれば良かったんだろう。
 答えのない問いの中を延々彷徨い続ける。それは「自分が殺した」とまでいかなくとも、自分にもできることがあったんじゃないかという、先の見えない後悔。

 けれど仮に「一方的に与えられることに耐えられず自死を選んだ」として、結果それでもこうして与え続けようとする人がいるというのは、その行為自体、全く意味のないことだったという証明になりはしないか。
 あなたがいなくなったところで、むしろ後悔に思い出す機会ばかり増えて、その度に手が止まります。私個人にとっては全くもって不利益です。といった具合に。

 なりはしないか。もういないんだから。話もできないよ。
 だからダメなんだよ。死んじゃ。

 

3、 月経前症候群

 少量のピルや漢方の内服で症状を和らげることができるとか、ABEMAのCMで見かけた時、旦那が「上手いな」と言っていたのを思い出す。

「だってこういうの見てる人達がターゲットでしょ」

 画面で男女がキャッキャしていた。確かにターゲットは10代〜上は知らないが、とにかく月経痛あるいは月経前症候群に悩まされている層に違いない。連日内服で月約3000円。条件としても本当に悩んでいる人なら悪くない。

 かく言う私も、不安感が強くなったり、いつもより感情的になりやすかったり、勝手に涙が出てくる時もある。自分で自分をコントロールできない状態、というのが分かりやすいか。
 常に軽度に暴走している。けれど気づくのは決まって後からで、だから事前に分かればリスク回避しやすいのだけれど、そんなのイチイチ覚えてない。

 だからと言って、山添くんみたいに〈3回に1回くらいなら〉なんて提案されても、続く藤沢さんのセリフ「え、それって私の生理くるタイミングずっと伺ってるってこと? 気持ち悪」そのままだし、コレはもう普段からおとなしく過ごすしかない。ベースおとなしく過ごしていれば、内側に起こるぐるぐるなら周りに危害を及ぼさない。これで行こう。あはは無理めー。

 

 おまけ、松村北斗さんについて

 彼の印象は「自然体で冷めてる」
 初見はバラエティ。恋について聞かれた時「恋って基本消去法じゃないですか。で、最後に残った人を好きになるっていうか」と答えて、会場全体をドン引きさせていたのを覚えている。
 実は彼、『キリエのうた』にも出演していて記憶に新しい。同じく熱を持たない役所で、もはや役というより本人がそのまましゃべっているように感じる。

 愛想がないというと語弊があるが、本人必要性を感じていないというか、
 その人と関わる必要性、それが自分である必要性、
 自信があるのかないのか、とにかく「自分の輪郭」を出ない。その様は極力人に影響するのを避けているようにも思える。

 この人、本気で人を好きになることあるのかな。

 余計なお世話だが、そんな風に感じる人だからこそ、男女間の友情云々がしっくりきた気がしてならない。この作品の調律、絶妙な温度は、間違いなく彼によるものだった。

 

 

 

 

 

偽りの表現者

「初めて見た時バレリーナかと思った」
 ポニーテールにパッションピンクのシュシュ。膝丈のフレアスカートにフラットシューズ。当時から並行して社会人やってた私は、同じ色の日々を過ごしながら、まだどこか自分に夢を見ていて、その潜在的な変身願望が普段ならしない格好を選ばせた。

 23、4歳の頃、地元のフリーペーパーにて短編の掲載をする機会があって、その流れで短編集の販売をした時「作品の絵を描かせてください」と言われたことがある。自身の個展を開催するような画家の人だった。
 1週間開催された販売会で、私が現地に足を運んだのは3日目。初日からずっと待っていたというその人は、すでに私の作品から私の及ばない世界を創造していた。その時生じた温度差。居合わせたのは「一つの作品から自作を生み出す許可を求めた聞き手」と「発散して満足していただけの、中身空っぽの話し手」

 

『地獄の楽しみ方』を読んでいればよかった。
〈読んで面白いなぁと思うこともあるでしょう。──(中略)──その感情は、その小説がもたらしたものではないんですよ。その小説を読んだ読者である皆さんが作り出したものなんです〉
〈そもそも書き手の気持ちなんかどうでもいいんですね。書いてあっても伝わらないんですから。伝わる必要もないんです──(中略)──傑作かどうかは読者によるんです〉
 そんなふうに受け取れたなら、あるいは過剰に反応せずに済んだのかもしれない。

 

 くまのような大柄の男性のとんでもない熱量に腰が引け、この時私はやっとのことで「お時間があれば」とだけ答えた。普段からHSPな特殊能力から人の顔色の機微に依り、未然に事故を防ぐことを徹底してきた私は、だから正面切って人が傷つく様を初めて見た。しかも相手は自分にとって最も大切にするべき人。
 ただ堂々としていればよかった。今更言い訳がきかない以上、「あなた見る目あるね」でよかったのだ。本来盛り込んでないものも、その人の中で補完されてる。作品とは聞き手ありきで初めて完成し、価値が生じる。
 作品自体独立したもの。だからそれをどう受け取るかは聞き手次第。作者だろうとそこに生じた感情に関わってはいけなかった。どんな背景があろうと全て、作品内で完結させるべきだった。

 それは後々、自身が素敵な絵を拝借してわかったこと。素敵な絵を、しかも無償で差し出してくださった方々には、今なお感謝しかない。彼、彼女らは自信があるから、自分と作品をちゃんと切り離しているから感謝だけ添えた。それが正答だった。

 

〈初めて見た時バレリーナかと思った〉
 それは何より自信のなさ故。作品本体に自信がないから自分を飾ることで傘増ししたに過ぎない。無駄な愛想だって同質。自分ではない自分になりたいと思いながら、結局は自分の枠を出られない。3は10にはなれない。その実私は、人に夢を見ることさえ許さないピエロだった。

 

 私自身がどうなんて知ったことではない。
 問題は作品を生み出す以上、人と関わってしまうこと。人の心に関与してしまうこと。
 切り取り線が「私」と「作品+聞き手」の間に引かれている以上、必ずしもそこに作者としての責任はなくとも、不足や意図しないことがあれば未然に直す義務はある。何故なら優秀な聞き手がそこから自分の世界を構築してしまうから。土台がゆるゆるだとその人を巻き込んで事故を起こす可能性が生まれる。だから可能な限り自分の輪郭を把握しておく必要がある。

 一方で自分を好きになることも大事だと思うのは、そうすることでやっと相手を受け入れる余裕ができるから。それはどんなベクトルでも同じ。自分から伸びる矢印全てを研磨する。
 昔「漫画家になりたい」と言った時、母親に「漫画家は頭良くないとなれないよ」と言われたことを思い出す。今ならその意味がなんとなくわかる気がする。何かを生み出すには、生み出す本体がそれだけのものを蓄えていないといけない。3から10は生まれない。だから10に近づけるための努力をするのだ。

 

 せめて自分のテリトリーでもう二度と人を傷つけることのないよう。
 偽りの表現者は、せめて本物になるための努力をするというお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

【祝映画化】朝井リョウさん『正欲』


今週末公開される映画『正欲』のため、改めて本作を読み返したので考察、感想文してみる。相変わらずガッキーかわいい。
 この作品の根幹は人類存続の根幹、種の保存に直結する「性」にあり、そこから派生する多様性、ある種の「柔軟性」について、複数の視点から話を進めて行く。『観る前の自分には戻れない』というのはその通りなので、文章はハードルが高いという方は特に、是非とも映画館に足を運んでいただきたい。私も行く。

 今回は大きく4つに分割して感想文しようと思う。

 

1、表紙から読み解く

表紙は頭を下にしたカモ。天地の違和感はどこかタロットカードを思わせるが、とにかくカモであることは間違いない。連想するのは「いいカモ」。対象を利用することで、自身の心地よさを得る。ニュアンスとしては、ペンギンが安全を確認するために、海を渡る前に内一匹を海に突き落としてみるというもの。

〈「あなたには分からないかもしれないけど」〉

子供を多数派でいさせることで、正常に生き延びる確率を高めようとする啓喜。けれど学校が苦痛で、別の道を生きようとする息子と、それを応援する妻。2人の言い分は、けれども検事という職業柄、犯人の社会から弾かれている率の高さを鑑みて、素直に受け入れることができない。結果生じる軋轢。
 怖いのは誰の主張も間違っていないこと。正義の反対は別の正義であること。
 同じく論理同士のぶつかり合いが、視点の数だけ見られる。

 多数派の言い分。少数派の言い分。
 多数派の性質も持ちながら、選択肢があるにも関わらず望めない立場の言い分。
 それはどの段階で扉を閉めるかの違い。単純に話し合えば解決するものではない。それは誰もがもつプライバシー。カモにはカモの一存がある。

 

2、共通認識が共通認識として機能しない孤独

 生きとし生けるものに課される命のリレー。必要になるのは性、異性に惹かれる心とした時、自分に必要なものが備わっていなかったら。
 何はなくとも当然の土台として話し出すその土台がなければ、確かに本人にとっても相手にとっても〈地球に留学しているよう〉に見えるかもしれない。土台を欠いた状態での話は、いずれ大きな齟齬を予感させる。関係を続けるためには互いに気を張り続ける必要があり、結果当たり障のない会話に終始する。だからわざわざその人と「繋がろう」と思えない。と、そういうことだろうか。特に全ての分母に当たる「性」だからこそ、広義、「それ」があることで存在することを許されているからこそ。
 不幸なことに人は社会を形成する。決して一人にはしてくれない。けれど一人証人がいれば、生きるのはぐっと楽になる。「その人」がまともであると証明してくれる一人がいれば。

〈「人生の中のたった一点を隠しているだけなのに」〉

 全ての分母だからこそ深い絶望。
 だからこそ、ただ一人の証人を求める。この人が語る自分は確かに自分だと笑えるような。自分にとっての相手と相手にとっての自分が、限りなくイコールに近い関係であるような、そんな理想。

 

3、多数派がしていることは滑稽に分類されないらしい

異性に対して興奮しない2人の異性がセックスの真似事をしてみる。


〈「何これ」「私いま死んだカエルみたいじゃない?」
 脚を抱えたまま、夏月が言う。
「異性と知り合って、連絡先交換して、駆け引きとかして、おしゃれして、デートして、その最終ゴールがこれ?」〉

 笑った。真理だ。「大多数がやっていると分かっていること」だからわざわざ疑問に持たないだけで、ほんと、たったそれだけのために家族や信用やお金や立場、その他もろもろを捨てるなんて馬鹿げてる。けど渦中にいる人は正常な判断ができなくて、逆にそれだけの力が定点で発生している。そういう意味では、「それだけの力」を正面から避けられるというのは、裏切りが発生しないと分かりきっている関係というのは、出逢えさえすれば、ある種最も幸せな関係と言えるのかもしれない。

 

4、やさしさに必要なのは想像力

〈「一番大切なのは、──(中略)──何でもいいからとにかく言い切るということ」〉
〈情報過多の社会の中で、就活生ほどほんの少しの情報に揺さぶられる人たちはいないだろう〉として「誰もが答えを求めている」というのが、同作者による『何様(むしゃくしゃしてやった、と言ってみたかった)』での見解。
 何よりラクだから。「AはBである」と言い切ってしまえば、その先の思考は放棄していい。だからこそ「AはBとは限らないかもしれない。何故なら」を掘り下げる続けること自体ストレスで、よくもまあこれだけ掘り下げたなと、謎の上から目線で脱帽する。

 同作者の作品に多くみられる「自分をAの立場に置き、巧みな共感から最後に思いっきり裏切るという手法」は、これまた健在で、今回も思いっきり負傷した。
 ただ、啓喜と妻のやり取りは一思いにスパンと切られた感じがしたが、一方で八重子と大也のやり取りはノコギリのような形状をしていて、なんだかギリギリと嫌な感じが残った。たぶん八重子というキャラクターに好感が持てなかったというのと、ほっといてくれという感覚が自身の性質に近しいせいだと思う。あくまでこれは私個人に終始することだけれど、基本どの立場の言い分も分かる。そうしてこの作品の目的こそ「立ち止まらせること」なんだろうなと思う。

 それぞれに思う正しさがあって、でもその反対にも別の正しさがあって、それまでただ一時の気持ちよさのために「言い切ること」で、知らず誰かを傷つけてきたかもしれない人が、ほんの少し口調を和らげれば、不用意に傷つく人が減るかもれない。
「立ち止まらせる」というのは「可能性、想像力を養う」ことで、結果「言葉を選ぶ」ようになり、傷つきにくい社会をつくることだ。そのために用意したのが、ざわめきを残さずにはいられない最後の一文だと思う。
 セキュリティ、インフラの如く見えづらい。けれどその基盤は、マナーは、きっと万人の生きやすさに直結する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『キリエのうた』映画感想

『キリエのうた』すごく良かった。私にとってこの映画が今年のベストだ。3時間があっという間だった。
 ふと思い出したのは『さくらん』。吉原遊郭を舞台に身売りされた少女の半生を描いたもので、この映画、最初から最後まで椎名林檎さんの楽曲が流れている。だからこの作品を見返す時、「純粋に作品が観たいから」と「林檎さんの曲が聴きたいから」という二方面からの動機が生じる。
 同じく『キリエのうた』は、けれど作品のタイトルにもなっている以上、『さくらん』以上に「うた」のクオリティが求められる。これに見事に応えているのが主人公アイナ・ジ・エンド。

 

 アイナは元BiSHのセンターで、そのハスキーボイスは一度聴いたら忘れない。ソロでYouTubeにあげている『消えないで』では、映画作中にも使われているようなバレエを披露しており、その美しさに当時からこの姿がもっとたくさんの人の目に触れるといいなと思っていた。

 

 何にせよ「うた」である。
 いくら演技やダンスが良かったとしても、あくまでこの作品の柱はうたで、だから確固たる柱、このうたを歌うのが彼女で良かったと心から思う。彼女のために作られた映画だとさえ思える。作中で「うたは人生を変える」というセリフが出てくるが、そんな言葉を重いと感じさせないだけの力が彼女のうたにはあった。
「Lemon」や「ドライフラワー」。誰もが知っている楽曲。ふいに涙が出た。
 分からない。明確な理由もなく涙が出た。歌うことで伝えようとする何か。「感情」では収まらない、もっと別の、オーラとかパワーとかそういう類の。
 カフェでいきなり「歌えよ。歌は人前で歌うもんだろう」と言われて、挑発に乗るように歌い出した時には鳥肌が立った。オペラ歌手のような息継ぎ、助走がまるでない。いきなりゼロからイチを叩き出す。身構える間もなく度肝を抜かれた。いわゆるクリーンヒット。

 

 何がいいって、何よりきちんとキリエのうたが良かった。売り上げが芳しくないのかなあ。同時期公開の映画より一日当たりの上映本数が少ない。『消えないで』と思うけれど、まだやっている内にぜひ一度映画館に足を運んでほしい。

 繰り返す。私にとってこの映画が今年のベストだ。

 

 

 余談だが、もう一つアイナ・ジ・エンドがすごいと思ったのは、広瀬すずを完全に脇役にしていること。
 だって考えてもみて。広瀬すずみたいなザ・お人形を隣に置いたなら、引き立て役は隣に立つ側に決まってる。けれどうたで、表情で、動きで視線を攫う。追わずにはいられない。
 引き込まれる。作中ほぼすっぴんに見えるアイナと、きっちり化粧をした広瀬すずの対比。コントラスト。ただ造作の美醜に依らない。これはだから彼女個人の持つ底知れぬ魅力。

 

 

 

ニコイチ【後編】

思うに自信がなかった。だから大層好かれても「自分なんかを」好きになる意味が分からなかった。fさんが著書『いつかは別れる。でもそれは今日ではない』で、当時好きだった小学校の先生に言われたという言葉が象徴な気がしているので転写する。

 

 

〈「あなたが私の好きな本を読んで、私の好きな言葉を覚えて、私が好きそうなことを話しても、あなたのことは好きなままだけど、大好きにはならないと思う」と、先生は笑った。
「だから、あなたは私の知らない本を読んでね」と〉

 

 

 先生だからやさしい言い方をする。恐れず言うなら、私ならそんな相手のことは歯牙にもかけなくなる。言われてみれば確かに当時付き合っていた人も好きだったけど大好きにはならなかった。
 私たちが求めたのは「自信のない自分を受け入れてくれる人」ではなく、「努力なくしては振り向いてくれない人」だった。

 

 机上の空論。なれない現実があろうと、理想の自分があった。
 私たちは自己肯定に必死なつまらない生き物だった。つまらない生き物であると認め合うことができた。彼女は治らない浮気癖を持つ自分を、私は周りにいい顔ばかりする自分を、受け入れ合うことで息ができていた。決して大袈裟にではなく、本当にそうだった。知らぬ地で出会えたことは奇跡だった。周りからどんな影響を受けようと、傍に彼女がいたために、私は私でいられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『まいまいつぶろ』も終盤、家重が50歳になる前の年の秋、忠光が家重のすぐそばで昏倒する。忠光がいたからこそ将軍を続けてこられた、そのことを家重は〈だが、誰が将軍であり続けたいなどと願うだろうか〉とし、〈「この四月、朔日に将軍職を辞す。家治をここへ入らせて、私は西之丸へ移る」〉とした。

 

〈「そなたがいてくれたゆえ、私は人が思うほど難儀をしておったわけではない」〉

 

 別れの時が来る。〈「そなたが倒れたと聞いても、私は会いに行ってやれぬぞ」〉と言う家重に〈「少し先に参り、上様のおいでをお待ちしております」〉と答える忠光。

 

 江戸城の正面、開く大手門。
 忠光程度の身分の者は、まさかそんなところから出入りすることはない。
 長い廊下を先に立って歩く家重。いつも通り、今まで通り片足を引き摺りながら歩く。その両脇、〈皆が面を伏せて小さくうずくまっている〉

 

 浮かぶのは比宮。「この先もう二度と、殿が誰からも侮られぬように」という願い。
忠音「他でもない、玉はどこへでも進める」と信じた思い。
吉宗「友として上様にお支えせよ」と言い残したこと。

〈中ノ門も三ノ門もすでに開かれていた。全て用意が調い、何一つ手間取ることもなく、警固の者たちが控えている〉

 江戸城には九十二の門があり、内大門は六。無論、最も堅固に守られているのは大手門。

 

 

 

〈「さらばだ、忠光」〉

 

 

 

 家重はウソをつかなかった。現代人が携帯電話の便利さと引き換えたものの重みを感じる。そうして代わりに言葉を続けた。

 

〈「もう一度生まれ変わっても、私はこの身体でよい。忠光に会えるのならば」〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 システム的な利害関係といった方が、関係の名称としては近しいのかもしれない。孤独のストレスを避けるため、孤独になるかも知れないストレスを避けるため。約束。4年間の契約。私にとっての彼女と彼女にとっての私。

 彼女が好きだった。死して何年経とうと色褪せないほど、いや、どちらにせよ実際会うことはないから、今尚その姿は変わらぬままで。
 明日の講義も、バイトも、部活も、彼氏も、浮気相手も、
 最終何一つ話すことがなくなって、ただ居合わせただけのラウンジ。それでも。

 

 私はそれでよかった。共に在ることに明確なメリットなどなくとも、全てが満ち足りていた。寒空の低い角度から照らす夕日。終わりが近づくモラトリアム。最後にそこにいたのが彼女でよかった。
 彼女が好きだった。大好きだった。

 

「またね」と言った。あの時ついたウソ。
 彼女は微笑んで受け止めた。彼女には分かった。
「相手の心証に依るクセを排した先にある本音」が。私が伝えたかったのは「もう会うことはないと思うけど、また会いたいと思うくらい別れを惜しんでいる」という思いであり、それを寸分違わず受け取ることのできる彼女だったからいつだって安心していられた。

 

 私たちは最後の最後まで裏門から出入りをした。
 華やかな道を大腕を振って歩くのではなく、ただ誰にも迷惑をかけないような片隅でおしゃべりをしていた。当たり前にそばにいた。いなくなってもいなくならない。それは実体の有無を問わない。一人ではないと知ることができた。ただそれだけで私自身、生きていてよかったと思える。

 

 

 おりすん。
 待ってて。まだ時間はかかるけど、いずれそっちに向かうから。
 最初顔とか変わってて「誰?」ってなるだろうけど、あなたを肯定しようとして必死で真似た不思議イントネーションの関西弁で話しかけるから。それならきっと分かると思うから。それまで。

 

 

 

 またね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニコイチ【前編】

読書感想文 作品の一部を借りた自分語り

 

極力ウソはつきたくない。例えば「──ちゃん俺のこと好きやろ」と言われる程度なら、正面切って「はい」と答えるくらいには。直接ウソはつかずとも「言わないだけ」という手法ならよく使うが。

 

 

 

 学生の頃4年間だけ奈良にいたことがある。
 不思議イントネーションの関西弁はその時身についたもので、本場関西では「違う」と言われ、地元に戻ってきたとて「(こっちの普通とも)違う」と言われ、今尚現役コウモリやっている。いや、もう何も考えてないから。何も考えずに話してるのがコレだから、自らマイナーロードを選んできた私にはおあつらえ向きなのだろう。
 きっかけは兵庫県出身の友人との出会いだった。

 

 

〈関西弁、キツくないん?〉

 

 

 初対面、遠州弁だろうと関東のイントネーションがベースの私に、その子は言った。テレビで「キツい」と関東の人が言っていたのを耳にしたことあるという。
 おそらくそう感じるのは、話し方やスピード、単語に対してで「体臭を気にするかの如く、他人の不快を真っ先に気にかけるような性質の人」の言葉がキツくなりようがない。きっとそれは中国語ベースだろうと韓国語だろうと同じだった。

 名を廣畑沙織という。通称おりすん。享年24歳。この4年間、誰よりもそばにいた友人だ。
 丘の上にある校舎は北門が表にあたり、南下して帰る私たちはいつだって裏門を使っていた。下った先にあるT字路。

 

〈またね〉

 

 最後の下校時、別れ際、私たちはウソをついた。
 彼女にとっての私は知れない。けれど私が彼女に対して明確にウソをついたのは、この時が初めてだった。
 もう会うことはないだろうと思った。私たちはただ一時その場に居合わせたに過ぎない。片道6時間かけてまで自ら「会おう」と向こうも言わないだろうし、私も言わないだろうと思った。内向型2人が偶然食堂の隅に居合わせた。ただそれだけのこと。

 

 思えば境遇が似ていた。
 好きになった人が彼女持ちなこと。好かれて付き合った彼氏をきちんと好きになれないこと。距離感の取り方が下手くそで、人間関係に気疲れしやすいこと。そうしてそのために互いを拠り所としたこと。
 机上の空論。本当はこうあるべきという理想となれない現実。ともに偽善者だと笑った。キレイ事ばかりで、延々同じところで管を巻いているつまらない生き物だと。
 つまらない生き物であると認め合うことができる。それがどれほど希少で価値ある存在か、この時の私は知らなかった。そのくらい当たり前にそばにいた。11時50分にはたった2文字と記号のついたメールが来て、私も2文字だけのメールを返した。「(タバコ)吸ってもいい?」に対して、ちょっと嫌だけど「ええよ」と返すのと同じ、息をするようなやりとりが日々の一部だった。

 

 そう考えたら、システム的な利害関係といった方が、関係の名称としては近しいのかもしれない。孤独のストレスを避けるため。孤独になるかもしれないストレスを避けるため。約束。4年間の契約。実際は5人グループだったが、とるコマの関係で結局同じ学科の彼女といることがほとんどだった。

 

 彼女が好きだった。
 白い頬。良すぎる血色を嫌がって、コンシーラーで潰した上に好みの色を重ねた唇。指先に挟んだタバコ。その手の上に顎をついて「しょうもな」と笑う顔。のぞく八重歯。
 一人が怖いくせに、後ろ姿が誰よりキレイで、いつだって先の尖ったパンプスで30分もかかる距離を歩いて通っていた。
 私と並んで歩いているのを見かけた野郎の部員が「合コンやろっ」と言わずにはいられない程、雰囲気のある子だった。自慢のツレだった。

 

 外見はいざ知らず、境遇の似ていた私たちは、けれども選択だけはことごとく違った。
「2番目の女」になるつもりのなかった私は、好きになった人を諦め、好きになってくれた人と付き合うことを選んだ。「2番目の女」でもよかった彼女は、その人と関係を持ち、好きになってくれた人と付き合い始めてからも関係を続けた。
 退屈を恐れた私は部活に入り、バイトを始め、サークル2つを掛け持った。人間関係の拗れを恐れた彼女は、最低限の居場所だけを確保し、けれども早く帰宅することによる耐え難い個の時間を、人気のあるラウンジで潰すようになった。
 似てる、と彼女も思ったという。けれどだからこそ、彼女は私が自分の及ばない世界を切り開いていくことに不安感を募らせたという。

 

〈──ちゃんはいいなあ。居場所がたくさんあって〉

 

 いつだったかラウンジのソファから見上げながら彼女が言った。今思えば本当は何かあったのかもしれない。逆に聞いて欲しい何かがなかったとしても、その時ただそばにいて欲しかったのかもしれない。
 好きになった人との関係に悩む時、そうして辛そうにする時、いつだって私は問題を解決するために訳を尋ねた。けれどそんな私の言い分に、いつだったか彼女は寂しそうに笑った。

 

〈──ちゃんの言うことはいつも正しい〉

 

 私の「正しさ」が彼女を追い込んだと言う程、彼女にとっての私が大きい存在だったかというと疑問は残るが、私の持つ「正しさ」が彼女を圧迫していたのは事実だ。似た境遇だったからこそ、結果に明暗が分かれるからこそ、分かってて選べなかった正しさが自分を否定する。ただ分かってて選べなかったのは、何も本人のせいだけではなくて。

 

 その時生じた思いは、その人にしか分からない。少なくとも赤の他人が一辺倒に倫理的な善悪で叩くものではない。育った境遇、人との関わり方、距離感は人それぞれ。彼女は過去不登校だったと言った。人とうまく関われなくとも、言葉でつながれずとも、身体をつなぐことはできる。ただそばにいることで一時寂しさから逃れることはできる。決して器用とは言えない彼女の、それは一つの個性だった。もちろん彼女が白だというつもりはない。けれど誰かが彼女を責め立てようというなら「責める相手が違う」と言って誘導するつもりくらいはあった。

 

 

 

 

 

 

文系の独り言〜村木嵐さん『まいまいつぶろ』、『阿茶』を添えて〜

まず引っかかったのは「然り」の対を「不然」と表記していること。通常「然り」の対は「否」であり、不然は中国語の表記だ。人によってはこの2字の間にレ点が見えるかもしれない。

 学校で習ってきた古文、漢文。最終それぞれ全体の4分の1の点数を占めていたものは、けれども昨今「知っていて何だ」という声もあるという。日常生活の役に立たないものなら、その時間を、例えば投資とか実用的なものに使った方がいいという。
 以前どこかで書いたことがあるのだが、私自身思うのは、「そうして実用的なものばかり集めて、効率だけを優先して、最終命を終える時、それらを両手に広げて見てどう思うか」
「豊かさを感じるもの」は十人十色。美しい数式を求める人もいれば、声に出して読みたい日本語を掘削する人もいる。ただお茶を飲むためだけにピタゴラスイッチを作る人さえいるんだから実に面白い。
 ちなみに同作者の著書『阿茶』では、〈「よし。ならば表で遊んでこい。父母在せば」〉〈「遠く遊ばず」〉という父子のやりとりが出てくる。これも論語だ。

 

 古来そうして価値基準は設定されていた。元々の気質、風土が合わなければ、例え入ってこようと定着しない。それらは国民をもって「正しいと思うから」今尚語り継がれている訳で、根を、それを知る機会そのものを奪ってはいけないと思う。それは問答無用にさるかに合戦の握り飯に換える行為に他ならない。
 思い出したのは過去にも取り上げたことのある『文系はクソとか言う奴がなぜバカなのか教えてやるよ』というYouTube動画。要点だけ摘むと「理系は核兵器の核。保有するエネルギーの絶対量が大きく、使い方一つで人を殺すこともできるし社会を豊かにすることもできる。そうしてその力の正しい使い道を考えるのが文系」というもの。
 あるいは実用的なもののために理系だけ育てる環境があったとして、必要最低限、最速だけを取り揃えた結果何が起こるか、いよいよ想像がつくだろう。

 

 9月4日、原発の処理水廃棄の問題で、それまで連日日本のどこかで中国人からの嫌がらせの電話が鳴り響いていた。「国内の問題から目を背けさせるために国外の問題を取り上げる」というのは、何も中国だけがやることではない。そうして国として日本を擁護する声を報道上黙殺する中で、けれども中国人を名乗る人から「同朋がごめんなさい」という連絡があったと日本のメディアが伝えた。
 国はただの箱に過ぎない。言語も個性に過ぎない。大事なのはいつだって個々の意思。やさしくされたらやさしくする。助けられたから助ける。それは国や時代、立場を問わない。いくらすごい技術で一人一台個人情報携帯するようになろうと人間の本質は変わらない。

 

 勝手に区切るな。国も、言語も、障害あるなしも。
 必要なのは相手を受け入れる「余裕」思いやる想像力。
 そうして私たちはもっとやわらかくなっていいと思う。