【香澄】
「丁度レセプションパーティーと重なっちゃって。今時同伴なんて、時代遅れ晒してるようなもんじゃない?」
チラリと時計に目をやると、言いながら卵を半分に割ったようなグラスに口をつける。底が斜めにカットされているため、置くと綾乃の言うことをまっすぐ聞いているように見える。
薄く開いた窓からそよ風が流れてきた。漆喰の壁にオークの窓枠。間隔を広めに取ったテーブルの中心に置かれた古い自転車。そこから広がる視界には、至る所に同じような色味のアンティーク雑貨が散りばめられている。2メートルの高さに並ぶホーロー鍋は、向かって左から大きい順。10個もあれば完全に実用でないと分かる。
裸の電球が申し訳程度に橙の光をたたえているが、太陽光を遮るもののない室内は、チラチラと舞う埃が見えるくらい明るい。
「接待?」
「そ。旦那の取引先の人がド偉い愛妻家で、私にも挨拶したいとか何とか。簡単に来てとか言われても、こちとら髪とか化粧とか服とかもう踏んだり蹴ったり」
大袈裟に吐いたため息がグラスの口紅跡にかかる。その水面がわずかに反射するのを見ながら、向かいに座る咲良は「踏んだり蹴ったり」と合わせて笑った。
オードブルが運ばれて来る。若い女性の店員が一通り説明してくれるが、聞かせるというよりは、言わされている感が強い。行儀が悪いとは思いつつ、それならと急かすようについフォークを揺らしてしまう。
綾乃は先週日曜日に開催された香澄の結婚式の様子が知りたくて、学生時代のゼミ仲間である咲良をランチに誘った。たびたび使用するイタリアンは、味以上に北欧テイストの雰囲気を買っている。
似たような明度とはいえ、一様に全ての光を跳ね返す大理石とは違い、弾くものと吸収するものの取捨選択をしてくれる漆喰の壁は、まるで家のような安心感があると綾乃は思っていた。
「で、どうだった?」
やっとオードブルの説明が終わってスタッフが離れると、綾乃はここぞとばかりに身を乗り出して、小声で聞いた。
いつだったか「いい人なんだけどね」と香澄が言っていた。32の時だから、3人にとって4年前に当たる。
綾乃はその時の香澄の「眉を下げた、けれども微笑んでいる口元」を、どういう表情として捉えたらいいのか分からなかった。綾乃の息子が5歳で、咲良の次男が3歳の年だった。
そして最後に会ったのが丁度一年前。香澄と付き合って5年になる男は、未だ定職につかず、最低限の食い扶持だけ稼いで、ひたすら趣味の絵を描き続けているという。
「私も自分の好きなことを捨ててまで生活のために生きてなんて言えないし」
生活のために生きて、という言い方が斬新だと思った。大人になって、生活費を稼いで、人の手をとって、誰かを育てる。そんな当たり前を生きられない、子供のまま大きくなる人もいるのだということを、綾乃はその男を通して初めて知った。
香澄はやさしい。だからこそ、そのやさしさが搾取されている気がしてならなかった。自分の好きなことをしている男は、そのために香澄にもあるはずの「自分の好きなこと」を削っている。
「将来への不安? なくはないけど、今しかできないこととかあるし」
年取って描けなくなる絵って何だと綾乃は思った。それよりも遥かに稼ぐ手立ての方が削がれていく気がしてならない。
「なんか、蟻とキリギリスみたい」
言った時、初めて香澄と目が合った。その目の表面が光に揺れる。
水面に張った膜。香澄は今、不安真っ只中なのだ。
「どうして、どう見ても小さくて非力なアリがせっせと働かなきゃいけないの? 食べる量だって相手の方が多いでしょ?」
「でも全く働いてない訳じゃなくて」
「当然。でも結果的に自分一人がやっていけるかどうかって話でしょ? どうするの将来子供とか」
「大丈夫」
もうお腹一杯というような、はっきりとした声だった。その下唇が弾き結ばれる。
「大丈夫だから」
自分に言い聞かせているようだった。傍から見てそれは自己防衛に思えた。
曲がりなりにも自分の大切にしている人。しかも5年ともなれば離れ難いのはあるだろう。けれどだからこそ、今ここで引き離さなければという思いがあった。将来のために。香澄のために。
丸皿に広がったオードブルをつつきながら、咲良は「どうっていうか普通に良かったよ」と答えた。生ハムのサラダはさることながら、ここのキッシュは一際美味しい。自然会話は弾むはずだった。
「どのくらい人来たの?」
「うーん、親族合わせて20人弱かな」
それなら友人の数はかなり限られる。多くて5人ってところかと綾乃は思った。
「式場は?」
「式場っていうかレストラン貸切で、カジュアルな食事会って感じかな」
答える咲良と目が合わない。絶対に出てくると思っていたキッシュの褒め言葉もない。業務のように端から順に片付けられていく。
少しするとパスタが運ばれてきた。つばの広い帽子のような皿は、頭の部分が小さく、けれど深さがあるため、見た目以上に量がある。
咲良は店員を呼び止めると紅茶を依頼した。何も言わなければ食後に運ばれてくるはずのものだった。
「相手は? あの人なんでしょ?」
名前は知っていた。けれど何となく呼ぶ気にはなれなかった。
咲良は「そうだと思う」と答えた。香澄は何も、その人と以外付き合ったことがない訳ではない。けれど他に取り上げるほどの人がいないために、基本がその人だった。
思わずため息が漏れた。
「ああやっぱり。大丈夫かなあ。絶対大変だと思うんだけど」
少し遅れて下げられた綾乃のオードブルの皿。代わりに来たクリームパスタからわずかにたちのぼる湯気。それを冷ますように咲良が言った。
「……それ、あの子にも言ってたの?」
えっ、と目を上げる。その手元で美しく巻かれたパスタ。今の今まで合わなかった目。言葉以上に、その眼光に綾乃は怯んだ。
「はじめくんの話、聞いてないの?」
「聞いてるよ。最後香澄に会った時、まだ定職についてなかったし、いい年なんだから大丈夫? って」
咲良はかすかに眉根を寄せると、そのままパスタを口に運んだ。
隣の地区は今日小学校が早帰りの日で、3時には息子と娘が帰ってくると言っていた。
時計を確認する。まだ12時半だ。
「綾乃は? 最近どう?」
急に話を振られて驚く。と同時に、どこか安堵する。
何となく気まずくて食が進まなかった。水を向けられると、こちらとしても話しやすくなる。
「変わらず。でもこないだ彫刻刀用意してってお知らせ届いて、何だってあんな高いの。その時しか使わないのに5000円って。しかも使う本人はキャラクターのがいいって言うし」
ピカチュウだろうとミッキーだろうと彫刻できればいいんだよ、と言うと、咲良はかすかに笑った。ように見えた。
「ご主人は? やっぱり忙しいの?」
「そ。完全ワンオペ。せめてゴミ出しだけでもやってくれると助かるんだけど。最初が肝心ってのが、今になって身に染みるよ」
ホント、香澄んとこは大丈夫かなあ、と何気なく口にすると、再び咲良の手が止まった。いつの間にかパスタが残り3分の1くらいになっている。
「大丈夫でしょ。あそこは」
言いながらもう一口含む。トマトソースをナプキンで拭う。綾乃は止めたままの手を動かせずにいる。
「……はじめくんのこと、本当に何も聞いてないみたいだね。それを私がベラベラ喋るのも違うと思うけど、はじめくんの名誉のために言っとくね」
はじめくん、と口にする咲良は、自分よりずっと近しい関係を築いているように綾乃には思えた。綾乃の手元からカチャリとフォークの音がする。
「確かにはじめくんお金ないし、世間一般からしたらあんま価値のない人かもしんないけど、それってあくまで『世間一般の人からしたら』なんだよね」
世間一般の人。それは友人、関係者ではなく、赤の他人の総称。
「はじめくん、前にあの子の誕生日にお花をあげようと思ったんだけど、お金なくて、代わりに絵を描いてあげたんだって。真っ白なお花の絵」
絵を描くと言っていた。趣味で。
「油絵、趣味って言うの? あれで? 感動してたよ。白って白で描く訳じゃないんだって。青とかピンクとか黄色とか、濃淡で結果白。普通に買うよりずっと価値があるって」
その枯れない花は、今は新居の玄関に飾ってあるという。
「元々変な人だとは思ってたみたい。夜景見て『空が赤い!』って言う人なんて会ったことないって。並んでても片時も同じものを見てないって」
本当に変な人なの、と言って笑ったという。
「セックス」
「え?」
ドキッとした拍子に、再びフォークが音を立てる。
「はじめくん、聞くんだって。前からがいいか後ろからがいいか正面から。ムードも何もあったもんじゃないって、始めは戸惑ったみたいなんだけど、そんなこと今までなかったって」
「それは……ないでしょ。それって二人の間で何となく合わせるもので……」
「私は」
静かな声だった。けれどきちんと遮られる。
「それを聞いた時、なんて誠実なんだろうって思った。いる? 周りに自ら教えてって言える男の人」
フォークが冷たい。パスタがクリームを吸って全然減らない。
「そんなこと今までなかったって。ゲラゲラ笑いながらセックスするの。布団にくるまったままベッドから落っこちたって聞いた時には、何でそんなことになるのってこっちまで笑っちゃった」
咲良の右頬をやわらかな光が照らす。弾くものと吸収するものの取捨選択。漆喰の壁は咲良にこそ家のような安心感を与えている気がしてならない。
「落っこちるってびっくりするじゃない。で、びっくりする時ってドッキリでもかけない限り、何か別のものを一緒に見ていて、そんな顔こんな間近で見ることなんかないって。その時思ったんだって」
香澄の下がった眉を思い出す。微笑んでいる口元。
アンビバレンス。香澄はあの時確かに揺れていた。揺れていたけれど、たぶん、それでも好きが勝っていた。
「『この人は私が守ろう』って。どのタイミングで決意してんのって思ったけど、案外そういうものなのかもしれない。そのこと自体、もうずっと前から決まってて、出てくるきっかけを探してただけみたいな」
〈いい人なんだけどね〉
下がった眉と微笑む口元。
「初めて会った時、はじめくん『いつも楽しくお話聞いてます。友達みんないい子でうれしい』って本当にうれしそうだった。傍から見ててもああ好かれる人だって分かった。どうあっても生きていけるタイプっていうか」
咲良が最後の一口を含むと、ナプキンを押し当てる。
その頬が、必ずしもパスタによるものではなくふっくらしている。
「だから大丈夫だと思ったし、現に大丈夫っぽくなってる。式に来てた多江が、知り合いのデザイナーに作品の写真見せたら、ツテたどって個展やれることになったって。あとは任せてって感じ」
〈大丈夫〉
はっきりとした声が耳元に蘇る。その声に、続いた〈大丈夫だから〉が重なる。
その声を、咲良がしっかり受け取ったように見えた。
「情報戦なんて5人いれば充分。国内に限らず、世界中から呼び集めてやる」
私は何を間違えた?
綾乃はさっきからずっと記憶を辿っている。咲良のふっくらした頬を見ながらずっと。
ずっと目の合わない旦那と、何度言っても出されない弁当箱と、ランドセルの奥から出てきた授業参観のお知らせを思い出している。
「普通、いいことは進んで言わないの」
大して食べていないクリームパスタが黄色く固まっている。
「『いい人なんだけど』ならどこがどういい人で、踏みとどまっている訳は何か。両方聞かないと、いいところは出て来られない」
だから私のお腹の中に入ったものも、同じように黄色く固まっているに違いない。
こうして見ると、どこか身体に悪いものを取り込んでいるような気にさえなる。
雰囲気も、味も、それに合わせてそこそこいい値のイタリアンでも。
「本当は呼ばれなかったんでしょ? 結婚式」
〈丁度レセプションパーティーと重なっちゃって〉
「いや、」
「分かるよ」
紅茶だけを啜る咲良の言葉は、透明度が高い。
「分かる。知ってる? 香澄、昔名前を「カスみたい」っていじられてから、自分の名前を好きになれなかったの。それを知ったはじめくんが、夜景見に行った時、『バカだなあそいつら。そんで気にしなくていいのに』って」
空が赤い、と言ったその人。
違うものを見ていても、違うものを見ているからこそ、寄り添おうとする。
「『香澄はとても澄んだ目をしている。君の名は「スミカ」。気にするならそう呼ぼう』って」
澄んだ香りで澄香。漢字をひっくり返しただけで、中身は何も変わらない。
紅茶を啜るたび、水面を反射した咲良の頬が赤く染まる。それは離れても残るようで、
「……だからそれを知ってる子は、みんなあの子のことを澄香って呼ぶ」
みんな。友達、関係者。それは世間一般の対に当たるカテゴライズ。
香澄を、はじめくんを祝福し、守ろうとするコミュニティ。
結婚式は、そういう人たちが集う場所。
口元の汚れた、傾いたグラスだけが綾乃を見ている。紅茶はまだ運ばれてくる様子もない。
私だって香澄のために。香澄の幸せのために。
そのために、香澄を思って、否定してきた。
黄色いパスタが、うまく飲み込めない。
私はどこで何を間違えた?
「ご馳走様。これ、お金。悪いけど先行くね。あとこれ、1週間くらいやってるから、もし予定合うようなら見に来て。結構広いから1時間くらいは楽しめると思う」
そう言い残すと、咲良は颯爽と去っていった。
途端、店内のざわめきが人の声に変わる。楽しそうな笑い声。
変わらず明るい店内。綾乃はただ一人、動けずにいる。