独り言多めの読書感想文

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【読書感想文もどき】文系が正面から物理と数学と向き合ってみたのだけれど


「どうやら乳糖不耐症みたいで、頑張っても飲めないんだ、牛乳」
 という感じに、残念ながら物理も数学も絶望的に適性がなかった。『知識ゼロでも』や『文系もハマる』といった文言に釣られて購入した本の著者名に「川」と「康」を見つけた段階で脳みそは『雪国』に飛んでいるのだから、私は根っからの文系だ。
 そうして「ここが面白いんだよ!」と力説されたところで「へえ」以上に何も出てこないのは、ひとえに読者である私がポンコツだからと断っておく。そもそもこの本を購入するに至った以上、きっとその先には「なりたい自分」があって、食わず嫌いとか、自分との間に線を引きたくなくて手に取ってみた。それでも無理なものは無理だし、試してみたけど合わなかったという事実は、食べてもみなかった時よりリアルにその感覚を表現できるようになった。たった数文字から5行程度の感想になるなら、何より自分自身も納得しやすい。こっちは行き止まりだったと、割り切って別の方向に舵を切れる。

 

 そもそも論、「現象を集約できる」と文字に過剰な期待をかけてしまっていた時点で間違っていたのだ。〈言葉というのは多くの情報を捨てて。ほんのちょっと、氷山の一角程度しかものごとをあらわせない、そういう性質のものです〉と京極夏彦さんが『地獄の楽しみ方』で言っているように、例えば「ボールが飛んでくる」だけでも「どんな大きさの?」「どのくらいのスピードで?」「どんな弾道で?」と幾通りにも捉えられる。絵で見れば一瞬で把握できることも、言葉を介すると「ラケットを使ってベースラインから打ち出されたボールは、天井に設置された蛍光灯との間で一瞬姿をくらますも、かけられたスピンの分だけゆっくり飛んでくる」となる。そうしてこれが漫画と小説の差。
 漫画は描き手が物凄い時間と労力をかけた割に、小説に比べて早く消費される。自ら理解に向かわずとも勝手に入ってくる。だから理科は実験が多かったのだと今になって納得する。参考までに文系の私が地学と向き合った時の記録をお見せしよう。まさか能動じゃない。地学は自身が作品を作り上げる上で必要となる要素だった。ただそれだけだ。

 

 

『面白くて眠れなくなる地学』左巻健男さん著より

 


    あ、あ、読まなくていい。こんなん出されて「うわあ面白え!」とはならない。実物を研究しているのだから、当然入りは実物であるべきだ。そこで見たものを初めて文字に落とし込む。始めから文字に当たるから氷山の一角をチョリチョリする結果になるのだ。ちょっと何言ってるかわかんない。
 本ばかり読んでいると現実の視覚以外の情報量に溺れてしまう。かと言って現実で受けた刺激を放置しておくと、風化して、輪郭のないイメージ、ぼんやりとした印象になってしまう。わざわざ写真を撮らないように、本人さえ満足すればいいのかもしれないが、映えたいなら個人の主観を客観的にも楽しめる形で残すことをおすすめする。いや、そもそもあれは個人の主観の世界か。

 

 絵と文字。現実と仮想現実。
 それぞれ深く関わり合っていて、どちらかが過剰に優位になるとどこかに支障をきたす。疲れているのに無理に文字に当たったところで、かえって曲解してしまうこともあるし、逆に元気な時には自分から理解に向かわないと物足りなく感じることもある。
 そういう意味では、コンディションを整える上でも自分の癒し方を知っているというのは重要なことなのだろう。私にとっての癒しはテニスであり、書くこと読むこと、飼い猫と昼寝をすること。物理や数学に興味を持ったのは、テニスにそれを活かせないかと考えたからで、結果的には無理だったが、努力の方向としては悪くなかったように思う。まあ頭で理解したところで実際できるかは別問題。私は大人しく練習に戻ることにするが、一方で適性があり、活かせる人には存分に活かしてもらいたいとも思う。私はその「絵」を見て、ありがたく盗ませてもらう。

 そんな今回は「文字(視覚、仮想現実)×物理、数学(五感、現実)」及び「小説×漫画」の話。