一
昼下がり、陽だまりの中で動く影は三つ。一人はノッポであとはチビ。バランス良くノッポを挟んで押しくらまんじゅう。
三月十九日。まだ寒さの残る中、それは原始的な保温術。
「シノノメサカタザメって知ってる? サメって名前ついてるんだけどエイのなかまで、こんなにでかくて、ゆっくりおよぐんだ」
ノッポはそうなんだと言うと、低い視点から仰ぎ見られたエイのお腹の写真を見て頬を緩めた。エイのお腹にある顔はいつ見ても面白い。
「でね、この子がマリでこっちがリカ」
「礼奈! お人形遊びはまた今度にしようか」
ノッポが「そうなんだ」と言うより先に、その小さな手から人形を取り上げたのはノッポの上位交換、超ノッポだ。男は素早い手つきで片付けると、かわいい妹が全力で抗議するのも聞かず、それらをまとめて押し入れに押しやった。
「楓、今日はいい天気だな。お前の好きなカブトムシもわさわさ出てくるだろうなこれなら」
「は? ヘラクレスオオカブトのこと? アイツら日本にはいないけど」
「うるせぇ! 虫取り少年は大人しく外で虫とっとけ!」
少年はぴったり肩をくっつけて並んで座っているノッポを見上げると、超ノッポに目を戻してため息一つ、
「すなおによめと二人にしてほしいって言えばいいのに」と言って立ち上がった。そうして未だに兄に抗議し続ける妹の手を引く。
「礼奈、大きい方のこうえんに行こう」
「じゃあまことちゃんもいっしょにいく」
「よめは飛鳥がせんやくなんだ。じゅんばんこなんだ」
「せんやく?」
「さきにいっしょにあそびたいってこと。飛鳥はおとなだけどおとなげないから、ぼくたちがおとなになって、ちゃんとまつんだ。できる?」
「おとな! できる!」
今年小四と小学生に上がったばかりの紛れもないチビっ子二人が、仲良く玄関に向かうのを見つめる大人げない超ノッポは、底知れぬ弟の妹操縦術に戦慄を覚えた。末恐ろしいとはこのことだ。形はどうであれ、己の望む方に自ら向かわせている。
「相変わらずしっかりしてますね、楓君」
そうして彼らの向かった玄関の方を見ながら口にするのはエセノッポ。その実、比べる対象が幼かっただけで、全くノッポではない。男は頭をかくと、その場に腰を下ろした。
目の前に焦がれた少女がいる。こうして話していても未だに現実味がない。
男は他の目線がないのをいいことに、その白い頬を穴があく程に見つめた。
一つにくくられた髪。その根元には普段見られないアイテムがついている。水色。シュシュと呼ばれる飾りの一種だという。
薄手の白いカーディガン。比較的かっちりしたタイプのスカート。どれも下手に触ったら痕跡が残るタイプに見えた。
「あちらにはもう行かれましたか?」
ふいに尋ねられて男は身を固くした。無防備な横顔を見つめる自分もひどく無防備であることは自覚していた。
「ああ。住むとこ見るのに一度行って、ついでに構内も回ってきた」
「そうなんですか。楽しみですね」
「ああ」
実際、その地に足をついた時、自分の選択は間違っていなかったと確信した。腑に落ちた、と言うべきか。
土地には神サマが宿るという。どうやら行く先の地の神サマは、俺を歓迎してくれているらしい。アパート、大学、さらには駅から歩いて向かった東大寺。その全てが「分かりきった答え合わせ」のようにしっくりきた。修学旅行で一度来たことがあるとかいう生やさしいものではない。焦点が合う。戻ってきた、という感覚だった。ただ、
郷愁。それと同時に、夕方長い影を見ながら途方もない孤独を感じたことを思い出す。
「戻ってきた」にも関わらず、圧倒的に不足していたもの。
手を伸ばすと、少女は分かりやすく強張った。
苦笑い。男はその頭をやさしくなでると、胸の奥でわめき立てる我を押し殺した。笑ってしまうほど、近づき方が分からなかった。
少女は男が気を遣ったことに気づくと、あわてて言葉をつないだ。
「サークルとか入られるんですか?」
「ん。サークルじゃなくて、部活だな」
サッカー、と言うと少女は目を丸くした。思ってもみない返答だったのだろう。続けて質問する。
「元々経験があるんですか?」
「ああ。小、中で。丸三年離れてるから身体がついていかないんだが、身体の使い方自体は忘れないもんだな」
「ポジションはどこを?」
男は鼻の頭をかいた。照れくさそうに目をそらす。
「ゴールキーパー」
これまた意外な新事実に、今度は小さく頬を緩めた。
「すごい・・・・・・。火州さんが跳ぶんですか?」
「ああ。すげぇ跳ぶ」
その言い方が面白くて、少女はお腹を抱えるようにして笑った。
競技自体テレビで見たことがある。でも所詮は画面を隔てたもの。百八十センチを越えるこの男が、実際身体を投げ出してプレイするということの想像がつかなかった。
薄手のスプリングニットから突き出た手首。その外側に真新しい傷を見つける。
「これ・・・・・・練習で?」
「ああ。立ち寄ったときに試しに入ったんだけどな。グローブの境で丁度すれたんだろう」
おそるおそるだけれどまじまじと見つめる。
その、自分とは全く違う手首に浮いた骨の形に、少女は戸惑っていた。同じ生き物であるにも関わらず、手の大きさも、浮き出た血管の色も、爪の形も、何もかもが異なる。以前こうして見たときは、ひどい腫れ方をしていてそれどころではなかったのだ。
「・・・・・・っと、別に触ってみてもいいぞ」
自分で言っておいて恥ずかしくなったらしく、その後すぐに耳を真っ赤にした男は、少女が食い入るように見つめている方と反対の手でその口元を覆った。
少女は戸惑いこそしたものの、許可が出たのでそっと手を伸ばしてみる。
その手の甲を見ようとして触れたのは手のひら。予想以上に熱くて汗ばんでいる表面にひるむ。相手に伝わりはしないかと不安になる程に激しくなる鼓動。
手に取って間近で見た手は、離れてみるよりずっと大きくて、皮膚が厚くて、ごつごつしていた。平らで横に長い爪。激しい鼓動は変わらず、それでも少しずつ少しずつなじんでくる。少しずつ、少しずつ。
少女は男の手のひらと手のひらを合わせると「全然違う」と言って眉を下げた。
その向こう、合った目は笑ってはいなかった。
いつだってそうだった。いつだって男は少女より長い時間、相手を見つめていた。
「・・・・・・そうだな」
射すくめられる。激しい鼓動はそのまま、完全に動きが停止する。
息がしづらい。広いはずの居間が急に狭くなる。
こくり、と動いたのど。男は合わせた手をつかむと、全く表情を変えることなく「ちいせぇ」と言った。
つかまれてしなる指。痛くはないけれど、確かに小さな自分の指先は、大きな獣に捕まえられたウサギの耳のように見えなくもない。
少女が答えに窮すると、男はその指先に唇を押しつけた。
跳ね上がる。もはや小動物並みの心拍数を刻み続ける心臓。そらせない目。まっすぐな愛情表現に、喜びよりも不安が勝る。少女はまだ、この男の持つ空気に順応できていなかった。それでも、そんなこと男には関係ない。
どこか他人のもののように見つめる自身の指先、その手を引くと、少女を懐におさめる。
固い身体を熱い体温がほぐそうとする。
もはや不安を通り越して、警報を出し始めた少女の身体は、その肌触りのいいニットの一部を掴んで、頑なに閉じたまま。たまらず男は声を発した。
「・・・・・・もしかして、こうやって会う度にこんなにガッチガチになっちまうのか?」
「そ、そんなつもりじゃ・・・・・・」
もちろん少女とてそんなつもりはない。けれどもじゃあすぐに解凍できるなら、誰も苦労なんてしない。気を抜けば一瞬で焼かれてしまうような、そんな熱を感じ取っていた。
自分がどうなってしまうのか分からない。
すさまじいまでの他力。影響力。自分の輪郭が分からなくなる。自我が消える。本体そのものをこの人に乗っ取られてしまいそうな恐怖。
そうして奪うだけ奪っておいて、この人はまた帰っていくのだ。絶対に触れることの叶わない、遠い地へ。
「真琴」
ドクン。
これだから嫌だ。
揺さぶれる。心が。魂が。
おそるおそる上げた顔。その先で見たものは
「頼むから、大事にさせてくれないか?」
ドクン。
予想だにしなかった、寂しそうな表情。
揺さぶられる。思い出したのは、水族館に行った日の帰り、
大きなこの人が、自分よりずっと大きな力を秘めたこの人が、とてつもなく無防備に見えたこと。
自己防衛は本能。本能で拒絶されることに、ただ純粋に傷ついていた。
「大事にすること」の労力の出所は、この男自身。懇願する。エネルギーを使いたいと申し出る。少女のために。
頑なに握りしめていたはずのこぶしが、そっとゆるみ始める。
少女は自分よりずっと不安げな男を見上げると、その胸に頬を寄せた。
ずっと目は合わせてられない。それでもあなたを拒絶しない。
「大事にしたいと思う気持ち」を受け入れるための努力。
ゆっくり息を吸って、吐く。少しだけ冷静さを取り戻した耳が気づいたのは、深く鳴る心臓の音。いつだってそれは、少女と同じような早さで音を立てていた。
頬がゆるむと同時に抜ける肩の力。
「飛鳥さん」
まだ呼び慣れない新鮮な音。男は「ん、」と答えると、続く言葉を待った。少女は目をつむって全ての神経を耳に集中させると、つぶやくようにして言った。
「あったかいですね」
陽だまり。徐々に低くなっていく光源。増えていく影。それでも今、この瞬間は
「そうだな」
この世界のどこよりもあたたかい。そんな気がしていた。