独り言多めの読書感想文

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汚部屋理論〜水卜アナを添えて〜




 いかん。こう書くと水卜アナが片づけできないみたいだ。違うよ。
 これは7月24日『有吉ゼミ』でのゴミ屋敷特集での水卜アナのコメントが残ったので、そのために書き残すものだ。


 世に言う「正論」
 最近ネットでの炎上、言葉での暴力を作品内に盛り込んだものを立て続けに目にした。一つは『ラストマン』8話、SixTONES京本大我(敬称略)が犯人役で話題になったもので、とある事件の犯人と同姓同名だということで間違ってネットに晒され、人生を狂わされたもの。もう一つは『推しの子』25、26話。こちらは作品内に出てくるセリフが印象的なので、使わせてもらう。

〈人は謝ってる人に群がるんだよ。謝ってるって事は悪い事をしたって認めたって事でしょ? 悪い事をしたなら石を投げていいよね? そんな風に謝罪って日本人の道徳的には正しいけど炎上対策としては下の下なんだよ〉

 その人にとっての正義。
 近頃は季節がら心霊現象、幽霊特集を見かけることがあるが、先日見かけたものは「奇妙な体験をした人を司会者主導で笑うスタンスで構成しているもの」で、見るに耐えなかった。それは一つのフォーマット。「見た」という人と同じ世界を見れない人が、見えない人同士で手を繋いで「あの人おかしいよね」
 まさか同じ口で多様性とか言ってないよねとか、誰も確認しないから罪は発生しない。

 その人にとっての正義。
 価値観の数だけ、事象の数だけ発生する分かれ道。別に誰のために生きている訳じゃない以上好きにすればいいし、とやかく言う人間こそ無粋。ただ、あまねく人は集団で生きてきた本能から同じ色に染まりたがる。だから近しい人と仲良くなり、違う人とどう折り合いをつけるか考える。

 一方、本能的に染まりたくない感じる、その最たるものは「不潔」だと思う。何故ならそこにはありとあらゆる菌を思わせ、病で身を持ち崩す可能性を孕むからだ。生きることに対して真っ直ぐ害を及ぼすからだ。
 だから清潔であることを重んじる。食事、排泄によって身体が循環しているのと同じように、その場所も循環していることが健康の基本。ここで問題になるのは何故それができないのか。

 ターンオーバーは年齢とともに伸びていく。年配の方に鼻毛が出ている人が多いのは、気にするしないという性質は別として、本来成長して抜け落ちるはずのものがゆっくりゆっくり成長してまだ抜けないからだ。根本本来の周期で巡れていないからであり、これは肌も細胞もまだダメージが回復できていないのに新たなダメージを受けるのと同じ。
 ゆっくりゆっくり。本来決して悪いことではないはずだけれど、現代に限らず、彼らにとっていつだって凄まじいスピードで世の中が回っているから、どうしても疲れてしまう。ちょっと休みながらやろうと思っても、ただでさえゆっくりだから、その休みさえ許してもらえない。「今やろうと思っていたのに」は何も子供に限った話ではない。

 本来快適な環境で過ごす方が本人だって気分がいいに決まってる。しかしじゃあその人にとっての快適とは、とした時。せっかく番組あげて片付けに入ったのに、数ヶ月で元通りになってしまった部屋に住む男性に対して水卜アナが言ったこと。ここでようやく冒頭回収。紹介しよう。


〈でも何となく分かるんです。寂しいんですよね。何もなくなっちゃうと〉


 言ってもゴミだ。それはコンビニ弁当の空き箱であり、ペットボトルであり、パンの袋。けれどもそれを聞いた側は目を見開いた。
「正しいと分かっていてもできない」事はある。そんな自分を「分かってくれる」

 寂しさ、である。
 申し訳ない。直前『80歳の壁』を読んでいたために、対象を高齢として話を進めてしまったが、これは別に年齢関係なく、
 寂しさというのは実に厄介だ。嫉妬と同じくらいコントロールが効かない。
 恋人、親兄弟、友人。考えてもみて欲しい。「寂しい」と口にするときの状況を。もう、一歩後ろは崖だ。だからそれは明確なSOS。すぐさま手を伸ばさなければいけない。
 けれどなかなかそれが言い出せない人もいる。ぽっかり空いた寂しさ。だから埋めるのだ。わざわざ手を伸ばさずとも、捨てさえしなければ溜まる。「それ」は、異臭と引き換えにその穴を埋めてくれる。

 生まれたばかりの猿を、一匹はぬいぐるみで、一匹は針金で作った模型で、同じように乳が出るように仕掛けて育てた場合、針金の方が早死にしてしまったという実験を思い出す。寂しいと生きられない。夢見るのにも人を介する。けれど思い浮かべられる相手さえいないとしたら。空箱も、ペットボトルも、パンの袋にも体温はない。けれどもその背後には必ず人がいて、「それ」はちゃんと代わりに埋めてくれる。

 誰もが鼻を摘んで遠ざける。誰もが指さして笑う。
 自分と線引きした相手の、その根っこに「寂しさ」があるかもしれないと気づいたとき、見る目は変わる。全く同じではなくても寂しさに覚えはあるからだ。今指さして笑ったその人は、将来の自分かもしれないからだ。

 それまで私にとっての水卜アナは「おいしそうに朝ごはんを食べる人」だったけれど、この時から見る目が変わった。まさか用意されたセリフだとは思えない。人間性。ただ糾弾するのではなく、何故できないのか、やらないのか。必要になるのは想像力。それは本来集団で生きてきた弱い葦だからこそできる配慮であり、思いやり。そうして言ってみれば「みんなも言ってるから自分も言っていい」「仲間に入りたい」として起こる炎上にもまた、寂しさは香る。


 結論。「その正論は誰かに寂しい思いをさせやしないか。孤独を生まないか」というのが今回得られた観点。
 水卜アナには今後ももりもり元気に朝ごはんを食べながら、たくさんの人に「一緒にいただきます」を届けて欲しい。
 それだけでほんの少しだけやさしくなれる人が増える気がして。