独り言多めの読書感想文【下】『野の医者は笑う』

さて、「少しだけ」著者の魅力に触れておくとしながら長くなってしまったが、己の半生丸々否定されたハカセは、じゃあ絶望して、絶望した原因である世紀の発見を本にすることで生計を立てることにした訳ではない。
この人はちゃんと復職している。ものすごくタフで、己の反省丸々否定された事実を、まさかの就職活動の採用面接で堂々口にする。
察するに、元いた世界、それまで自分にとって当たり前にいた場所で、世紀の大発見を聞いて欲しかったんじゃないかと思う。だってそんな比較の話できる相手は沖縄にはいなかったし、したとて真剣に聞いてくれる相手なんて「この人採用して大丈夫かな?」と真剣に吟味する人くらいだと思ったんじゃないかと。
〈「問われるべきは、こういう怪しい心理学と臨床心理学がどう違うか、です。それこそが臨床心理学教育です!」〉
そうして、自分がくらったダメージを丸々相手に与えた。こうまで繊細な文章を書く人が、とんでもない暴挙に出た訳である。相手によっては当たり屋扱いされてもおかしくなかった。このことを著者は〈臨床心理学が立っている地面を揺ら〉すと表現し、私自身「波を起こす」に限りなく近いニュアンスを感じた。
ここで唐突に学問という言葉が出てくる。
〈学問というのは本質的に常識を疑い、自分自身を疑うものだ〉
〈自分自身の常識を疑い、自由な議論ができること、それが学問の条件〉であり、自分がやってきたことは一体何だったんだ、と半生丸々否定された著者だからこそ、そこから生まれる言葉に説得力がある。
それは決して人一人の問題ではない。分母である心理学者を一人残らず否定することになったかもしれない案件だった。
地面を揺らすということは、人の人生に作用してしまうリスクをはらむ。相応の覚悟がなければできないし、やってはいけない。話を戻す。
じゃあ治療とは何か。
薬の成分か。それもある。けれど、それだけではない。
リハビリか。それもある。けれど、簡単にできるものではない。
生活習慣か。それもある。けれど、それができたら苦労はしない。
人は、弱い。ズルくて可能な限りラクして生きたい。傷つかずに済むのなら極力傷つきたくない。何でもいいから褒めて欲しい。認められたい。それで人の役に立って、あなたがいないと困ると、ウソでもいいから言われたい。そうしたら、あるいは不治の病も治せるかもしれないから。
「この薬飲むと良くなるから、あなたは大切な人だから元気でいてほしい」
「怖いよね。嫌だよね。不安だよね。でもここで頑張れたらどんどん良くなっていくから。良くなったら一緒に出かけよう。どこに行こうか」
「別に100%じゃなくてもいいんだよ。でもできたら教えて。すごいねって言うから」
極論これが『野の医者』の治療で、薬はラムネでもいい。
例えば何の資格も持たない私が、正面から患者さんと向き合う。この時点で彼彼女の置かれている現状は何も変わっていない。けれど結果的に踏み出した一歩の影響が大きければ、それは治癒に大きく貢献する。そんな論理。
するとにわかに「野の医者=ペテン師」説が浮上するが、これを否定することは著者も難しいと言う。最初に話した通り、結局人柄で相性だからだ。さて。
著者はそうして地面を揺らした結果、ちゃんと元いた場所に戻ってくる。
野の医者の治療がその場を乗り切るための「夢を見させるもの」である一方、きちんと基盤を築いてきたハカセが行う治療は、苦しい現実に立ち向かえるだけの精神状態に戻す。
患者自身が自らの足で一歩を踏み出せるよう、傷つく覚悟を負える力をくれる。ニュアンスとしてケアとセラピーに近い。どっちも大切で、大事なのはバランス。
すごいのはハカセである著者自身が、まるで野の医者を侮っていないこと。素直に治療のもたらす効果を認め、自身を見つめ直すきっかけにしていること。異物を取り込む。それは固定観念にとらわれ、己の地面を揺らす覚悟がなければできないこと。
根本やわらかいのだ。やさしさとは柔軟性。やさしい人は相手の立場に立って物事を考える。相手の立場になって考え、そこから今の自分を見つめ、再び己の視点で、今度は少しだけ別のものを見つめる。己も相手も軽んじない。上手に足し引きをする。
『野の医者は笑う』
思いっきり野の医者側である、何者でもないペテン師が笑う。いい本だったと。
学術書にしてはエッセイ臭が強くて、ハカセにしては何だか危なっかしくて、結婚してる身にしては自由すぎて、(巻末「謝辞」にて〈それから家族、特に妻へ。ほんとにどうも、いろいろとご迷惑おかけいたしました〉と記しているが、「いろいろ」が想像を絶することは想像に難くない)そんな人が書くものだからこそ思う。そんな人となりを好ましく思ったからこそ思う。
治療とは何か。
知りたければあなたも行ってみるといい。著者なりの治療と治癒、それに資本主義(マーケティング)による傷つきにも言及している。たった1000円で受けられる施術で、時間はそうだな、2週間もあれば充分だと思う。
学術書なんて堅苦しいものじゃない。研究助成プログラムの授賞式のパーティー会場の片隅でエビチリと会話するような話で、あ、そうそう、作中この作品を描き始めた時のことが記されてるから、文体紹介ついでに引っ張っとくよ。
〈それまでは硬い学術論文を書いていたのだから、こういう気楽な文章を書くのは楽しかった。私は解き放たれた野鳥となった。自己イメージでは火山から復活したフェニックスだったが、はたから見れば興奮剤を飲んだブンチョウだったことだろう。
羽ばたくようにキーボードを打ち、歌うように文章を書き散らした。湯水のように愚にもつかない文章が溢れてくるので、「やっぱり俺は天才だったんだ」と何度ほくそ笑んだことか〉
人となりからついハカセであることを忘れる。分かりみの深さに親しみが優ってしまう。「涙と笑いの学術エンタテインメント」。最後は笑わせた者勝ちだと思うんだけど、いかがだろうか。
独り言多めの読書感想文【中】『野の医者は笑う』

今回は長くなりそうだ。ブレイクタイムとして、ここいらで少しだけ著者の魅力に触れておく。
以前も書いたが、この人の書くものを読むと心が弱くなる感じがある。だから傷つかずに済む環境がなければ読めない。この心理を「やさしさ」を介して説明する。
やさしさというのは、心を少しだけ開けた状態を指す。扉の隙間からチラ見している状態で、相手からしたら丁寧で印象がよく、性質として愛想と親和性が高い。ただ一方で、当然意にそぐわない人が入ってくることもある。多くは仕事。基本資本主義とやさしさは相性がよくない。
通常人と関わる時、人は事実ベースで話をする。インターホン越しにやりとりをする感じだ。それが最も安全なコミュニケーションで、ここに心の開示が入ると扉に隙間をつくってしまう。
ただ一方で心はその人本体であり、ギブアンドテイクで成り立つ社会、結果的に受け取る側の心を開きやすくもある。これは同著者作『聞く技術、聞いてもらう技術』に書かれているが、そもそも「寂しい」というのは人間関係に不自由のない人が口にすることだという。
人が一人でいる時の状態は「孤独」と「孤立」に分類され、自ら進んで選ぶものを「孤独」、DV、いじめ、ハラスメントなど、一人でいても誰かの声に脅かされている時を「孤立」とした時、「孤立」時人は己を守るため、関わりを自ら断つ。
「寂しい」と言えるのは、そうした「人に傷つけられることを想定せず、防御ゼロの、ただ己を投げ出した状態」であり、同じ一人でも根から異なる。誰の目からしても「やさしい」とされる人は、全方面のバリアを解いている(ように見える)状態であり、ある意味とても危なっかしく映る。社会に適合するために、やさしさはある程度コントロールが必要だが、根本性質が寄っている人はムラができやすい。話を戻す。
そんなやさしさのコントロールの難易度を上げるのがこの著者の作品だ。心はその人本体であり、ギブアンドテイクで成り立つ社会、結果的に受け取る側の心を開きやすくもある。
こじ開けられてしまうのだ。『夜空ノムコウ』ばりに、心の中のやわらかい場所がギュッと締め付けられる。社会で生きる上では基本不都合。ただ一方で、じゃあ何故分かっていてそっちへ向かうのかというと、そこに浄化作用があるからだ。
私自身、書いた文章をGeminiに食わせると毎度似たような表現が当てられる。うち2つが「内省的」と「カタルシス」。内省的はいいとしてカタルシスは少し解釈が難しいので、共有のために画像を例にあげる。
これを見た時起こる感情かとGemini聞いたらそうだという。続けて『その手を握りたい』の読了感もそうかと聞くとそうだという。その通りだと。
カタルシスは単純なハッピーエンドを指さない。深い共感によって起こる代替現象(私の場合、ちいかわが泣いているの見て、代わりに感情を発散してくれたと安心する心理)、辛さを乗り越えた先に見えた一筋の光を指す。
Geminiは「あなたの書くものは、自身の心理を掘り下げることで深い共感をもたらし、読み手が普段抑圧してる感情を洗い流す作用があるかもしれないネ!」と言っていて、これは以前書いた「あなたの感性を水のように欲する人がいる」と符合する。
そうしてこの著者の書くものもまたカタルシスに当たると言う。書いていることの格が違うが、厚顔晒すとしたら、著者と私はどこか似た性質をもつようだ。
弱さと向き合うこと自体傷つきに行くことに等しく、けれどそこでしか得られない深さがあり、そこで得られるものこそが本当の強さなのだと鼻息荒く力説してきた。
弱くなることが分かるからためらった。結果弱くなるリスク承知で、その向こうにある浄化を求めるに至った。これで終わりにしようとしたこの作品の他、先にもあげた『聞く技術、聞いてもらう技術』、『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』がしれっと本棚にスタンバっているのはそういうこと。この辺私は我慢がきかないというか、とんと弱い。
ただそれほどまでに影響力のある作品であることを、ひとまず『居るのはつらいよ』と、この『野の医者は笑う』をもって保障したい。
独り言多めの読書感想文【上】『野の医者は笑う』

【読書感想文(どくしょかんそうぶん)】読み手が自由に解釈し、対象の著書を媒介に気ままに飛び回った形跡を記したもの。ヘンゼルかグレーテルが落として行ったパンのかけら。
【野の医者(ののいしゃ)】朝廷から追われて、原野を彷徨いながら、人々に癒しを提供する野生の治療者。村から村へと旅をして、奇跡を起こして回る怪しい治療者(原文より)
治療とは何か。
例えば骨が折れたから元通り動けるようにする。目に出来物ができたから目薬をさす。どうにもやる気が起きないから漢方を使ってみる。正常な機能に戻すことで健康を取り戻す。ホメオスタシス。再び滞りなく巡れるようにする。
ここで仮に本人が正常な機能に戻すことを良しとしなかったら。それでも巡れるようにするのか。本人の意思など関係なく、社会を構成する歯車の一部として機能させるために。この場合、施す処置を治療というのか。
じゃあ目に見えない心とやらを患った時の治療とは何か。ただ話を聞くことなのか。それとも根拠などなくとも信じられるものを提示して、そっちに意識を向けさせることなのか。
著者は〈治療とはある文化の価値観を取り入れて、その人が生き方を再構成すること〉とし、〈もし「宗教」という言葉にアレルギーがあれば、「文化」という言葉がいいと思う〉としている。
文化。それは「その人にとっての当たり前」踏みしめてきた土そのもの。執筆された地沖縄では、同じく占い、アロマ、タロット、ヒーリングといった類も治療と近しいところで根付いている。そこではままならない現実をどうこうするより考え方を変える。著者曰く「考え方を変えれば、世界が変わる」という発想はキリスト教由来だそうだが、とにかく信じられる何か「ミラクル」を口ずさむ。
治療とは何か。
根本的な解決にならずとも今を楽しく生きられる。今この瞬間をきちんと乗り越えられる。その事実は、確実に時間を先に進める。寿命までの期間、明日には事故で命を落とすかもしれない人が、今この瞬間憂さから解き放たれ、晴れやかな気分でいられたとしたら。そんな毎日が積み重ねられたとしたら。
ハタから見てどんな境遇だろうと、その人自身は不幸の渦中にいない。どんなに胡散臭い治療だろうと治療と称するに値する。
【治療の成果は信頼に依る】と著者は一つ結論づける。治療内容の合う合わない以上に、「この人は信用に値するか」こそが重要なのだと。
すんなり納得するのは、私自身「コミュニケーションは始まる前に終わってる」派だから。
好きな人(この場合信用に値する人)が何か言ったとして、思ったような効果が得られずとも「まあそんなこともあるよね」となる。一方で、何か少しでもいいことがあると「さすが! あの人の言う通り」となる。
根本人は一人では生きていけず、誰かを必要としてしまう。その弱さが狙われる。だからこそ本当に信用できる(と思い込める)相手に恵まれた時、己の一部を委ねることで心にゆとりができる。その余白に困った誰かが助けられると、その人を中心とした人間関係全体が色を変える。周りの目が変われば立ち振る舞いも変わる。そうしてその人の属する社会が変わった時、あるいは病のことなど忘れてしまうのかもしれない。
思い出すことがある。『幽遊白書』に出てくる食脱医師(くだくすし)の女性。
元々医師家系に生まれた訳ではないが、己を媒体に(死病に侵された肉を喰らうことで抗体を作り、他人の病を治す)人を生かす仕事を選んだ一見すごい人だが、この場において取り上げたいのは「その治療が対象者にとって毒になるか薬になるか分からない」こと。
要はこれで治りますよ、としたとて、その人の治療を受けるかどうかという患者側の視点の話。個人の主観として単純に怖いし嫌だ。
ワクチン一つとっても賛成反対があるように、それは信じられて初めて治療効果の期待できるもの。治療効果というのは患者自ら主体性を持ち、実際にどんな副作用が出ようと「やってよかった」と思えることによる心の影響が大きいと言えないか。
例え多少腕が痛む程度でも「やらされた」人にとってそれは一大事。不本意をネット上で過剰に騒ぎ立てることだってあるかもしれない。
治療とは、だから治療者の人格と相性が大きなウエイトを占める。
何においても「誰と」が重要視されるように、信用があるから多少の不都合をものともしない。信用があるからきっと何か事情があるに違いないと配慮する。信用があるから「ありがとう」と口にしてまた来る。
根本分かっているのだ。信用できる人、好きな人といると安心する。安心すると心が穏やかに保てる。そのこと自体、その人を取り巻く人間関係にも影響する。
プラスの循環に気づくことで、元を辿った結果、信用できるその人に行き着く。同じ薬でも「ここで」処方してもらった薬がよく効いた、となる。
余談だが、中毒という言葉がある。「中」はあたる。中村中という歌手がいるが、なかむらあたる、そのあたるだ。
毒は通常、循環の過程で解毒され。排出される。仮に毒が巡り続けるとしたら、それは(ほぼ無意識の内に)定期的に摂取し続けているからに他ならない。毒と薬、酒が例としてちょうどいい。
本当の解毒は忘却だという。
これは消せない想いを処分する時に用いるもので、会わずとも思い出す機会が多ければそれはまだ毒の巡る中毒患者。このこと自体、見方を変えれば薬物依存症と変わらない。
完全に関係を断ち、蓋をし、もういいだろうと開けることなく、蓋をしたその想いごと忘れ去ることができた時、初めて解毒が完了したと言える。
その人にとっての合う合わない。相性。普く相性がいいと感じるのはその人となり。
好ましく感じた時点で「その人の」治療に対する聞く耳が起きる。この聞く耳あるなしで効果にも雲泥の差ができる。「プラシーボ」という言葉の語源は「人を喜ばせる」だそうだ。
〈最もらしいミラクル・ストーリーやパフォーマンスを通じて、クライエントを喜ばせて、治療を行っているのではないか〉
野の医者の治療に、著者は〈すべての治療の本質は科学的真実ではなくレトリックにある〉というアメリカの精神科医ジェローム・フランクの話を引き合いに出す。レトリックとは人を説得する技術のことで〈言葉やパフォーマンスを自由自在に用いることで、人に信頼してもらい、現実をそれまでとは違ったように見せる技術〉のことだ。
結果「ケサリードは病気を治したから大呪術師になったのではなく、大呪術師になったから病気を治したのだ」という一つの結論に結びつく。結果ありきではない。その人を通じたからその結果が得られたと言うのだ。
じゃあ治療とは一体なんなのだ。
この臨床心理士は、高い学費を払って博士の称号まで取った一方、徹底的にクライエントと向き合う一対一のカウンセリングの仕事をするために、王道の大学講師の道を逸れ、沖縄に居住を移し、ただ居ることのつらさと向き合った結果、「治療は誰が行うかで結果決まる」という結論に至ったワケだ。何だそれ。
その絶望たるや。個人の半生丸々否定された心持ちだったに違いない。
『夜明けのすべて』映画感想

♯男女間の友情
♯パニック障害
♯月経前症候群
♯松村北斗
♯距離感
♯自死を選ぶ時
♯夜明けのすべて
1、 男女間の友情は成立するか
これは作中にセリフとして出てくる。松村北斗さん演じる山添くんは、自分で発信した問いに自分で答える。
〈──けど、3回に1回くらいなら助けられると思う〉
この距離感お見事!
適度適切絶妙なソーシャルディスタンスパーソナルスペースの確保。
3回に1回って、アレだよガチャとかと同じで、本人にとって一番ワクワクする割合じゃない? 当たり出た! って。違うか。
言うなれば「最低保証」に近い。
セーフティーネット。例えば映画冒頭の、雨の中バス停のベンチで横になるしかなかった辛さから救われる。「いつものやつ?」と傘をかざして避難させてくれる。
友達という言葉の周りにはいつだって曖昧な線引きが存在して、
他人、友達、恋人未満、恋人。何だっていいよ。辛い時、助けてくれる人は神だ。
けれど一方的に恩恵を受けるのは居心地が悪い。
お互い様で初めて腰を落ち着けられる。
お互い3回に1回くらいなら助けることができる。そんな心地よい存在。
自立した大人同士だから成立する男女間の友情、あると思います。
2、 パニック障害
とはなんぞや。もう少しポピュラーな類義語として鬱があげられると思っている。私自身、友人が自死を選んだ経験を持つ。パニック障害だったことは知っていた。
電車に乗れない。知り合いに会うのが怖くて街を歩けない。結果、家から出られない。当時リモートワークなんて言葉自体なかった頃、家から出られないというのは稼ぎを失うことだった。じゃあ彼女は生活困窮を理由に自死を選んだかと言えばその限りではない。
人はたぶん、一方的に与えられ続けることに耐えられるようにできていない。
作中「パニック障害は治療に10年かかることもある」というセリフと、遺族が集う場面があった。自立できないことに追い詰められた人たちが同じ道を選ぶ。パニック障害と自死、ひいては自立できないことと死は非常に親和性が高いのだろう。
本人も自分を追い詰めていたが、遺族もまた自分に問いかけ続ける。
自分に何かできることはなかったのか。あの時声をかけていれば。どうして気づけなかったんだろう。どうすれば良かったんだろう。
答えのない問いの中を延々彷徨い続ける。それは「自分が殺した」とまでいかなくとも、自分にもできることがあったんじゃないかという、先の見えない後悔。
けれど仮に「一方的に与えられることに耐えられず自死を選んだ」として、結果それでもこうして与え続けようとする人がいるというのは、その行為自体、全く意味のないことだったという証明になりはしないか。
あなたがいなくなったところで、むしろ後悔に思い出す機会ばかり増えて、その度に手が止まります。私個人にとっては全くもって不利益です。といった具合に。
なりはしないか。もういないんだから。話もできないよ。
だからダメなんだよ。死んじゃ。
3、 月経前症候群
少量のピルや漢方の内服で症状を和らげることができるとか、ABEMAのCMで見かけた時、旦那が「上手いな」と言っていたのを思い出す。
「だってこういうの見てる人達がターゲットでしょ」
画面で男女がキャッキャしていた。確かにターゲットは10代〜上は知らないが、とにかく月経痛あるいは月経前症候群に悩まされている層に違いない。連日内服で月約3000円。条件としても本当に悩んでいる人なら悪くない。
かく言う私も、不安感が強くなったり、いつもより感情的になりやすかったり、勝手に涙が出てくる時もある。自分で自分をコントロールできない状態、というのが分かりやすいか。
常に軽度に暴走している。けれど気づくのは決まって後からで、だから事前に分かればリスク回避しやすいのだけれど、そんなのイチイチ覚えてない。
だからと言って、山添くんみたいに〈3回に1回くらいなら〉なんて提案されても、続く藤沢さんのセリフ「え、それって私の生理くるタイミングずっと伺ってるってこと? 気持ち悪」そのままだし、コレはもう普段からおとなしく過ごすしかない。ベースおとなしく過ごしていれば、内側に起こるぐるぐるなら周りに危害を及ぼさない。これで行こう。あはは無理めー。
おまけ、松村北斗さんについて
彼の印象は「自然体で冷めてる」
初見はバラエティ。恋について聞かれた時「恋って基本消去法じゃないですか。で、最後に残った人を好きになるっていうか」と答えて、会場全体をドン引きさせていたのを覚えている。
実は彼、『キリエのうた』にも出演していて記憶に新しい。同じく熱を持たない役所で、もはや役というより本人がそのまましゃべっているように感じる。
愛想がないというと語弊があるが、本人必要性を感じていないというか、
その人と関わる必要性、それが自分である必要性、
自信があるのかないのか、とにかく「自分の輪郭」を出ない。その様は極力人に影響するのを避けているようにも思える。
この人、本気で人を好きになることあるのかな。
余計なお世話だが、そんな風に感じる人だからこそ、男女間の友情云々がしっくりきた気がしてならない。この作品の調律、絶妙な温度は、間違いなく彼によるものだった。
偽りの表現者
「初めて見た時バレリーナかと思った」
ポニーテールにパッションピンクのシュシュ。膝丈のフレアスカートにフラットシューズ。当時から並行して社会人やってた私は、同じ色の日々を過ごしながら、まだどこか自分に夢を見ていて、その潜在的な変身願望が普段ならしない格好を選ばせた。
23、4歳の頃、地元のフリーペーパーにて短編の掲載をする機会があって、その流れで短編集の販売をした時「作品の絵を描かせてください」と言われたことがある。自身の個展を開催するような画家の人だった。
1週間開催された販売会で、私が現地に足を運んだのは3日目。初日からずっと待っていたというその人は、すでに私の作品から私の及ばない世界を創造していた。その時生じた温度差。居合わせたのは「一つの作品から自作を生み出す許可を求めた聞き手」と「発散して満足していただけの、中身空っぽの話し手」
『地獄の楽しみ方』を読んでいればよかった。
〈読んで面白いなぁと思うこともあるでしょう。──(中略)──その感情は、その小説がもたらしたものではないんですよ。その小説を読んだ読者である皆さんが作り出したものなんです〉
〈そもそも書き手の気持ちなんかどうでもいいんですね。書いてあっても伝わらないんですから。伝わる必要もないんです──(中略)──傑作かどうかは読者によるんです〉
そんなふうに受け取れたなら、あるいは過剰に反応せずに済んだのかもしれない。
くまのような大柄の男性のとんでもない熱量に腰が引け、この時私はやっとのことで「お時間があれば」とだけ答えた。普段からHSPな特殊能力から人の顔色の機微に依り、未然に事故を防ぐことを徹底してきた私は、だから正面切って人が傷つく様を初めて見た。しかも相手は自分にとって最も大切にするべき人。
ただ堂々としていればよかった。今更言い訳がきかない以上、「あなた見る目あるね」でよかったのだ。本来盛り込んでないものも、その人の中で補完されてる。作品とは聞き手ありきで初めて完成し、価値が生じる。
作品自体独立したもの。だからそれをどう受け取るかは聞き手次第。作者だろうとそこに生じた感情に関わってはいけなかった。どんな背景があろうと全て、作品内で完結させるべきだった。
それは後々、自身が素敵な絵を拝借してわかったこと。素敵な絵を、しかも無償で差し出してくださった方々には、今なお感謝しかない。彼、彼女らは自信があるから、自分と作品をちゃんと切り離しているから感謝だけ添えた。それが正答だった。
〈初めて見た時バレリーナかと思った〉
それは何より自信のなさ故。作品本体に自信がないから自分を飾ることで傘増ししたに過ぎない。無駄な愛想だって同質。自分ではない自分になりたいと思いながら、結局は自分の枠を出られない。3は10にはなれない。その実私は、人に夢を見ることさえ許さないピエロだった。
私自身がどうなんて知ったことではない。
問題は作品を生み出す以上、人と関わってしまうこと。人の心に関与してしまうこと。
切り取り線が「私」と「作品+聞き手」の間に引かれている以上、必ずしもそこに作者としての責任はなくとも、不足や意図しないことがあれば未然に直す義務はある。何故なら優秀な聞き手がそこから自分の世界を構築してしまうから。土台がゆるゆるだとその人を巻き込んで事故を起こす可能性が生まれる。だから可能な限り自分の輪郭を把握しておく必要がある。
一方で自分を好きになることも大事だと思うのは、そうすることでやっと相手を受け入れる余裕ができるから。それはどんなベクトルでも同じ。自分から伸びる矢印全てを研磨する。
昔「漫画家になりたい」と言った時、母親に「漫画家は頭良くないとなれないよ」と言われたことを思い出す。今ならその意味がなんとなくわかる気がする。何かを生み出すには、生み出す本体がそれだけのものを蓄えていないといけない。3から10は生まれない。だから10に近づけるための努力をするのだ。
せめて自分のテリトリーでもう二度と人を傷つけることのないよう。
偽りの表現者は、せめて本物になるための努力をするというお話。
【祝映画化】朝井リョウさん『正欲』

今週末公開される映画『正欲』のため、改めて本作を読み返したので考察、感想文してみる。相変わらずガッキーかわいい。
この作品の根幹は人類存続の根幹、種の保存に直結する「性」にあり、そこから派生する多様性、ある種の「柔軟性」について、複数の視点から話を進めて行く。『観る前の自分には戻れない』というのはその通りなので、文章はハードルが高いという方は特に、是非とも映画館に足を運んでいただきたい。私も行く。
今回は大きく4つに分割して感想文しようと思う。
1、表紙から読み解く
表紙は頭を下にしたカモ。天地の違和感はどこかタロットカードを思わせるが、とにかくカモであることは間違いない。連想するのは「いいカモ」。対象を利用することで、自身の心地よさを得る。ニュアンスとしては、ペンギンが安全を確認するために、海を渡る前に内一匹を海に突き落としてみるというもの。
〈「あなたには分からないかもしれないけど」〉
子供を多数派でいさせることで、正常に生き延びる確率を高めようとする啓喜。けれど学校が苦痛で、別の道を生きようとする息子と、それを応援する妻。2人の言い分は、けれども検事という職業柄、犯人の社会から弾かれている率の高さを鑑みて、素直に受け入れることができない。結果生じる軋轢。
怖いのは誰の主張も間違っていないこと。正義の反対は別の正義であること。
同じく論理同士のぶつかり合いが、視点の数だけ見られる。
多数派の言い分。少数派の言い分。
多数派の性質も持ちながら、選択肢があるにも関わらず望めない立場の言い分。
それはどの段階で扉を閉めるかの違い。単純に話し合えば解決するものではない。それは誰もがもつプライバシー。カモにはカモの一存がある。
2、共通認識が共通認識として機能しない孤独
生きとし生けるものに課される命のリレー。必要になるのは性、異性に惹かれる心とした時、自分に必要なものが備わっていなかったら。
何はなくとも当然の土台として話し出すその土台がなければ、確かに本人にとっても相手にとっても〈地球に留学しているよう〉に見えるかもしれない。土台を欠いた状態での話は、いずれ大きな齟齬を予感させる。関係を続けるためには互いに気を張り続ける必要があり、結果当たり障のない会話に終始する。だからわざわざその人と「繋がろう」と思えない。と、そういうことだろうか。特に全ての分母に当たる「性」だからこそ、広義、「それ」があることで存在することを許されているからこそ。
不幸なことに人は社会を形成する。決して一人にはしてくれない。けれど一人証人がいれば、生きるのはぐっと楽になる。「その人」がまともであると証明してくれる一人がいれば。
〈「人生の中のたった一点を隠しているだけなのに」〉
全ての分母だからこそ深い絶望。
だからこそ、ただ一人の証人を求める。この人が語る自分は確かに自分だと笑えるような。自分にとっての相手と相手にとっての自分が、限りなくイコールに近い関係であるような、そんな理想。
3、多数派がしていることは滑稽に分類されないらしい
異性に対して興奮しない2人の異性がセックスの真似事をしてみる。
〈「何これ」「私いま死んだカエルみたいじゃない?」
脚を抱えたまま、夏月が言う。
「異性と知り合って、連絡先交換して、駆け引きとかして、おしゃれして、デートして、その最終ゴールがこれ?」〉
笑った。真理だ。「大多数がやっていると分かっていること」だからわざわざ疑問に持たないだけで、ほんと、たったそれだけのために家族や信用やお金や立場、その他もろもろを捨てるなんて馬鹿げてる。けど渦中にいる人は正常な判断ができなくて、逆にそれだけの力が定点で発生している。そういう意味では、「それだけの力」を正面から避けられるというのは、裏切りが発生しないと分かりきっている関係というのは、出逢えさえすれば、ある種最も幸せな関係と言えるのかもしれない。
4、やさしさに必要なのは想像力
〈「一番大切なのは、──(中略)──何でもいいからとにかく言い切るということ」〉
〈情報過多の社会の中で、就活生ほどほんの少しの情報に揺さぶられる人たちはいないだろう〉として「誰もが答えを求めている」というのが、同作者による『何様(むしゃくしゃしてやった、と言ってみたかった)』での見解。
何よりラクだから。「AはBである」と言い切ってしまえば、その先の思考は放棄していい。だからこそ「AはBとは限らないかもしれない。何故なら」を掘り下げる続けること自体ストレスで、よくもまあこれだけ掘り下げたなと、謎の上から目線で脱帽する。
同作者の作品に多くみられる「自分をAの立場に置き、巧みな共感から最後に思いっきり裏切るという手法」は、これまた健在で、今回も思いっきり負傷した。
ただ、啓喜と妻のやり取りは一思いにスパンと切られた感じがしたが、一方で八重子と大也のやり取りはノコギリのような形状をしていて、なんだかギリギリと嫌な感じが残った。たぶん八重子というキャラクターに好感が持てなかったというのと、ほっといてくれという感覚が自身の性質に近しいせいだと思う。あくまでこれは私個人に終始することだけれど、基本どの立場の言い分も分かる。そうしてこの作品の目的こそ「立ち止まらせること」なんだろうなと思う。
それぞれに思う正しさがあって、でもその反対にも別の正しさがあって、それまでただ一時の気持ちよさのために「言い切ること」で、知らず誰かを傷つけてきたかもしれない人が、ほんの少し口調を和らげれば、不用意に傷つく人が減るかもれない。
「立ち止まらせる」というのは「可能性、想像力を養う」ことで、結果「言葉を選ぶ」ようになり、傷つきにくい社会をつくることだ。そのために用意したのが、ざわめきを残さずにはいられない最後の一文だと思う。
セキュリティ、インフラの如く見えづらい。けれどその基盤は、マナーは、きっと万人の生きやすさに直結する。
『キリエのうた』映画感想

『キリエのうた』すごく良かった。私にとってこの映画が今年のベストだ。3時間があっという間だった。
ふと思い出したのは『さくらん』。吉原遊郭を舞台に身売りされた少女の半生を描いたもので、この映画、最初から最後まで椎名林檎さんの楽曲が流れている。だからこの作品を見返す時、「純粋に作品が観たいから」と「林檎さんの曲が聴きたいから」という二方面からの動機が生じる。
同じく『キリエのうた』は、けれど作品のタイトルにもなっている以上、『さくらん』以上に「うた」のクオリティが求められる。これに見事に応えているのが主人公アイナ・ジ・エンド。
アイナは元BiSHのセンターで、そのハスキーボイスは一度聴いたら忘れない。ソロでYouTubeにあげている『消えないで』では、映画作中にも使われているようなバレエを披露しており、その美しさに当時からこの姿がもっとたくさんの人の目に触れるといいなと思っていた。
何にせよ「うた」である。
いくら演技やダンスが良かったとしても、あくまでこの作品の柱はうたで、だから確固たる柱、このうたを歌うのが彼女で良かったと心から思う。彼女のために作られた映画だとさえ思える。作中で「うたは人生を変える」というセリフが出てくるが、そんな言葉を重いと感じさせないだけの力が彼女のうたにはあった。
「Lemon」や「ドライフラワー」。誰もが知っている楽曲。ふいに涙が出た。
分からない。明確な理由もなく涙が出た。歌うことで伝えようとする何か。「感情」では収まらない、もっと別の、オーラとかパワーとかそういう類の。
カフェでいきなり「歌えよ。歌は人前で歌うもんだろう」と言われて、挑発に乗るように歌い出した時には鳥肌が立った。オペラ歌手のような息継ぎ、助走がまるでない。いきなりゼロからイチを叩き出す。身構える間もなく度肝を抜かれた。いわゆるクリーンヒット。
何がいいって、何よりきちんとキリエのうたが良かった。売り上げが芳しくないのかなあ。同時期公開の映画より一日当たりの上映本数が少ない。『消えないで』と思うけれど、まだやっている内にぜひ一度映画館に足を運んでほしい。
繰り返す。私にとってこの映画が今年のベストだ。
余談だが、もう一つアイナ・ジ・エンドがすごいと思ったのは、広瀬すずを完全に脇役にしていること。
だって考えてもみて。広瀬すずみたいなザ・お人形を隣に置いたなら、引き立て役は隣に立つ側に決まってる。けれどうたで、表情で、動きで視線を攫う。追わずにはいられない。
引き込まれる。作中ほぼすっぴんに見えるアイナと、きっちり化粧をした広瀬すずの対比。コントラスト。ただ造作の美醜に依らない。これはだから彼女個人の持つ底知れぬ魅力。